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十三 予感
「あけましておめでとうございます」
朝食を前にして、優果と透は丁寧に挨拶した。
温かいお雑煮に入ったお餅がよくのびる。志生に教わって簡単に作ったものだ。お正月といえばお餅を食べることを想像しながらも、実際には食べていなかったことに優果は気がつく。
おせち料理も箸が進む。しっかりうらごしされた栗きんとんのおいもは、舌ざわりがよく、甘くておいしい。なますは、さっぱりさわやかに、大根とお酢の味が口に広がる。
朝食を片付けた後、優果は座り込んでぼんやりした。透も、のんびり毛づくろいをしている。午前の光で、透の羽がキラキラと虹を散らした。
ふと、机の上に置きっぱなしの金平糖を優果は見る。小瓶はほの明るく輝いている。私は、こういうキラキラしたものを好きだ、と優果は確認した。
透の音を聞きながら頬杖をついていた優果は、なんとなく、何か作りたいという気持ちになった。簡単なお雑煮のためにキッチンに立ったからだろうか、お菓子でも作ろうと思い、起き上がった。
冷蔵庫に卵がある。砂糖と片栗粉も、志生が色々使っていたおかげで残っている。志生が借りたいと言ったおかげで掘り出された量りもあった。優果がお菓子作りに使う道具は、就職して引っ越したときからそろっている。オーブンレンジも選んで買われたものだが、温めること以外に使われていなかった。
卵を割って、卵白と卵黄を分ける。優果の手は、頭が悩んでいるのとは裏腹に、高校生や大学生のときの記憶をたぐり寄せて動き始めた。
混ぜる、こねる、丸める。作業している間、優果の頭は楽になる。かつての優果は、月に数回、思い出したようにお菓子を作りたくなった。だから、繰り返し作ったものなら、手が覚えているのだ。
一センチほどの粒が量産される。単純作業をすると、優果の頭の中は、思考が静かに展開していく。透のこと、志生のこと、優果自身のこと。今までとこれからは地続きで、必ず終わりがある。
天板に広げたオーブンシートの上に、たくさんの粒がきれいに並ぶ。生地は半分残っていた。高温で十分間、焼いている間に残りの生地も粒になる。
焼きあがったボーロが取り出される。できた、と優果は達成感を得た。
少し冷ましてから、優果はさっそく食べてみた。さっくりとくずれて、ほのかに甘い。いい感じ、と微笑んでタッパーに移す。
残り半分を焼いている間に、片付けと次の準備をする。
「何を作っているの?」
透の声がして、優果はボーロをすべてタッパーに入れ終えると、持って行って見せた。
「あ、ボーロだ」
透は顔を輝かせた。
「ボーロがあるということは、メレンゲも?」
「うん、これから作るよ」
「いいなあ、懐かしいな。わたしも食べたいな」
「だめだよ、身体によくないから」
「そんなー」
見るからにしゅんと縮んだ透を見て、優果は少し申し訳なく思った。大学生の頃は、透や志生もよく優果のお菓子を食べたのだ。
「ウィンドウおやつしてるね……」
そう言って、つぶらな目をした透がタッパーの横に座る。優果は指先で羽毛をもふもふしてから、キッチンに戻った。
お菓子の材料を前にして、昔のように熱心に手が動く。疲れたら、ひと休みする。部屋をのぞけば、メレンゲのようにふっくらと机の上に乗っている透がいる。
半分のメレンゲを焼いている一時間で、もう使わない道具が片付けられる。換気もしておこうと優果が窓を開けると、冷たい風が通った。冬の空気がひんやりと押し入り、甘いにおいが外にこぼれだす。午前中に晴れていた空は、いつの間にか鈍色に覆われている。
外を眺めて寒さに身をさらしていた優果を、どうっと急に吹きつけた風が強く押した。ぐっと体に力を入れて、透は寒くないだろうかと振り返る。羽をぼさぼさにされながら、透は正面から真剣に風を受け止めていた。とはいえ、強すぎるからと窓は閉められた。
メレンゲが焼きあがると、残り半分も焼かれる。優果のおなかがなって、お昼ごはんの時間を知らせた。
昼食もおせちやお雑煮を食べた優果は、食後のお茶を飲みながらメレンゲをつまんだ。ふんわり溶けて、わたあめのような甘さが口に残る。手が止まらない軽いお菓子である。
「また食べたかったな、食べる機会があれば」
透は惜しそうにメレンゲを見ている。
「それにしても、お菓子作りって大変なのによくできるね」
「うーん、最終的においしく食べられたらよしと思っているから、わりとおおざっぱだよ」
「それでもすごいよ。わたしはキッチンに立つことが苦手だったから。優果はお菓子作りが好き?」
「好き」と息を吐くように優果は言った。「好きだし、無心になって作れるから、ストレス発散にもなっているのかもしれない」
優果にとってお菓子作りは、身の回りのことも、遠く続いていく人生のことも忘れて、目の前の作業に没頭することができる時間だった。
「透は、ストレス発散ってどんなことをするの?」
「毛づくろいかな」
「なるほど……」
「待って、ちゃんと答えるから」
「え、ちゃんとした回答だと思った」
透は立ち上がって、右の翼と右足をすいーっと伸ばす。左も同じように伸びをしてから、宙を見つめた。鳥になる前の記憶がたぐり寄せられる。
「わたしは、家にいることが最大のストレスだったから、外を歩くことが最もよい発散方法だったかな。歩きながら、道端の草木のさざめきや、川の水にちらちら反射する日光から物語をもらうんだ」
透ならではの発散方法だと優果は思った。透は家が嫌いだから、家の中でストレス発散することはなかなかない。一方、優果の家は、親が家を空ける時間が長く、キッチンもあまり使われていなかった。おかげで、家の中で作業するような発散方法を得ることができた。
「わたしは、頭の中で、外からもらった物語を聞くことが好きだった。外に出られないときは、もらった物語を思い返したり、窓ガラスに当たる雨粒から物語を聞いたりした」
すうっと目を細める透を見ながら、優果は再会したばかりの透を思い出していた。物語は、ない。もうずっと、聞こえていない、と言っていた透のことを。
「……おはなししてもいい?」
透の申し出に、優果は大きくうなずいた。
「さっき、優果が窓を開けたときの、冬の大風からもらったおはなし」
そう前置きして、透はゆっくり語り始める。
「建物がひしめく住宅街を抜けて、河川敷を歩いている人がいた。広い空はどんより曇っており、冷たい風が、冬の枯れ草をさわさわと揺らしていた。ぽつ、と水滴を頭の上に感じたとき、とうとう来たか、と歩いていた人は思ったけど、疲れていたので走り出さなかった。さあさあと冷たい雨が降り始めても、歩き続けた。
突然、正面からどうっと体当たりするように風が吹きつけて、その人は歩みを止めた。大きな風にすっぽり包み込まれる。ぐっと身体に力を入れて、細めた目を凝らせば、視界の中で、何か大きなうねりが、正面からごうごうと体当たりしてきているように見えた。まるで、大きな透明の龍が地面すれすれを飛びながら通っているかのようだ。負けんぞと、なんとか一歩を踏み出すことができた途端、風はやわらかいひと撫でを残して、後ろへ通り抜けていった。
ぼうぜんと立ち尽くして、辺りを見回すと、手のひらの二倍ほどの大きさを持つ透明なうろこが、いくつか落ちていた。もし触れば、チクと刺さりそうなギザギザがふちについている、立派なうろこだ。雲間の太陽に照らされてキラキラ、そのまま光に溶けて、消えていった。
その人はふと、身体の中でくすぶっていた黒いかたまりが、なくなっていることに気が付いた。もちろん雨は止んでおり、身体もすっかり乾いていた、とのことだ。……ほとり、ひらり、ふう」
ぼつぼつと、窓の外でくぐもった音が鳴り始めた。レースのカーテン越しに窓を見れば、雨粒が増えていくのがわかる。水滴は静かな銀河のようにきらめいている。
「私にも、風が吹き抜けていったなら」
優果は、さっき身体に受けた大風を思い返す。
「もう、どうしようもない、こびりついたおこげのような黒いかたまりが、身体の中からなくなったら、ぜんぶやり直せるかな」
透はピッと声を鳴らして、机の上に力なく乗っている優果の手に寄り添った。
おやつの三時過ぎになると、雨風とともに志生が帰ってきた。大変疲れた様子で、優果のお菓子を見ると顔を輝かせた。
「懐かしいものがあるじゃん」
くつろぐ準備が整うと、志生はお茶を入れて座った。
「あ。あけましておめでとうございます」
思い出したように挨拶をした志生に、優果と透も慌てて居住まいを正し、新年の挨拶を交わした。
「これからもよろしく」と透が言って、「ぜひ、これからも」と志生が笑った。
これからもずっとよろしくしたい、と優果は真剣に思った。
「ボーロもメレンゲも久しぶりだ。おいしい」
「いいなあ」
透は再び惜しそうに見ている。
「そうだ、ポンカンを買ってきたのだった」
颯爽と立ち上がった志生は、ポンカンを剥いて戻ってきた。
「ね、透。これならみんなで食べられるよ」
「おお、宝石のようにきらめいている……」
透は喜んで食べ始めた。
ポンカンの甘酸っぱさは、口の中でぎゅっとしみわたる。優果は、身体が明るくなるような心地だった。目の前が晴れ渡ってゆくみたいに、さわやかな味。
ポンカンも小瓶も雨粒も、何もかもが静かに光を湛えている。
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