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十六 選択
志生は夕飯の材料を持って訪れた。泣きはらした優果の顔を見ると、「座っていてね」と言って、さっそくキッチンに立った。
「志生、どうしてやさしいの」
「……やさしくないよ」
志生は野菜を洗っている。水の音が止まるのを待って、優果はさらに尋ねた。
「どうしてそう思うの」
沈黙があって、まな板の音がゆっくり鳴り始める。
「私は優果のためじゃなくて、優果が好きな私のために、いろいろやっているから」
うつむいた優果は、指先で透をふわふわしながら、志生の言葉を聞いている。
「私たちは、別々の生活をしていて、ずっと一緒にいられない。それなのに、私の都合で、勝手に優果の生活に参加しに来ている」
「でも、ここに来てほしいというのは私が頼んだことでもあるから」
「まあ、優果が頼んでくれたおかげで、遠慮なくここに来ることができているとも言える」
換気扇の音に混ざって、ねぐらに帰っていく鳥の声が通り過ぎた。
まな板の音が止まって、「優果は」と志生が慎重に切り出す。
「優果は、ここにいたいの?」
ややあって、「わからなくなってしまった」と優果は答えた。
「やらなきゃいけないことばかりで、時間はなくて、もう、よくわからないよ」
「その、やらなきゃいけないことは、大事なこと?」
じっと動きを止めた優果は、自分自身でも確かめるように、「うん、生活を続けるために、大事なこと」と言った。
「そうか」とつぶやいた志生は再び手を動かす。
キッチンの音に隠れそうな声で、志生は問いを投げた。
「一緒に来る?」
優果は顔を上げた。じっと、志生を見つめる。しかし、志生は優果のほうを見なかった。「志生」と呼んでも手を止めない。
志生の問いは、この地を離れて一緒に働くことを提案しているのだろうと、優果は知らない生活を思った。
「志生はどうして、その仕事を選んだの? どうしてあっけなく、行ってしまったの?」
ガスコンロの点火音が鳴って、志生はちらと優果たちを見た。
「簡潔に話せない質問だね」
「いいよ、長くてもいいから教えて」
がちゃがちゃと音が続いて、鍋を煮込むだけの状態にしてから、志生は優果たちのそばに座った。
「まず、私は生きていくのか、今すぐ死ぬか、どちらにするのかを考えた」
透が身じろぎした。志生は考えながら言葉を紡いでいく。
「生きていくなら、生活のために働かなきゃいけない。すぐにお金が得られるように働くには、どこかの企業に従属するという選択肢しか思いつかなかった。何もかも振り切って熱心になれるものはなかったし、成果が出ないかもしれない創作を生業にするなんて、恐ろしくてとても選べなかった。どんなに興味がなくても、生活のためだと割り切って、就職しなければならないと考えた。その結果、一回目の大学三年生は身動きできなくなったんだけどね」
苦笑いする志生は、もう過ぎ去ったことだから言えるね、と付け足す。優果も透も、あえて聞かなかった留年の理由は、一年間の休学だった。
「私は割り切れなかった。割り切るくらいなら、死ぬほうがいいと思った。幸いなことに、お世話になっていた教授が、一年間のフィールドワークとして休学しないかと提案してくれたんだ。民話の収集は好きだったし、死ぬ前にどこか遠くへ行けるなら嬉しいと思い訪れた町は、ほの明るくひらけた、風の気持ちいいトオシという土地だった」
「それって、今、働いているところの?」
思わず透が口をはさんで、志生はうなずいた。
「そこで季節労働の移動集団があることを知った。ただの居候じゃ肩身が狭いから、一緒に働いたんだ。無心になって、自然に切り込んでいく。生活の中心が、自分ではなくなっていく。毎日へとへとだったけど、全然耐えられることだった」
志生は水を飲んでひと息ついた。
優果の目には今まで、志生が軽やかに映っていた。軽やかなのではなく、そうなるために重いものを離した人であることを、優果は初めて知った。
「死ぬことを選ぶくらいなら、発売日に新刊が読める、食べたいものをすぐに食べられる、会いたい人にすぐに会いに行ける……そういうことから離れないといけない新しい選択肢を選ぶことだって、できる。最後に、本当に無理になったら、いつでも死ぬことができる……それが救いになった。生きているものは、いつだって、死ぬことと隣り合わせだ」
二人は、死ぬことを選んだ友人を思った。一羽は、自らの死を選んだ時のことを思った。
「今も、いつだって死ねることが救いなの?」と優果は気になって尋ねた。
「いや。救いだった、と言い換えておくね」
志生はにっこり笑った。
「毎日、土のにおいとともに労働して、土地の文化を学びながら民話を集めて、必死になっていたら、思わぬところから救われることになった」
炊飯器が鳴って、志生はキッチンの様子を確認しに行った。
「先にごはんの支度をしてもいい?」
「あ、手伝う」
志生の話の続きを聞きたくて、優果はするりと動き出すことができた。透は、ほっと息を吐きだした。
ほかほかのごはんとともに、ごま豆乳鍋が出来上がっていた。いただきますと手を合わせて、さっそくお肉を口にした優果は、身体が食べ物を強く欲しがっているのを感じた。
熱心にごはんを食べている優果を止める人はいない。すっかりおなかが満たされると、優果がはっと気を取り直した。
「志生の、今の救いは何?」
「ああ」と志生は熱いお茶をすすって、再び話し始める。
「私の今の救いは、この仕事を続けることだ。私はね、ずっと、作ることに執着していたんだよ。ある日、ふと、農業は生きる糧を作ることだと思った。そして気が付いた。私も作ることに参加している、って。この生活を続けたいという気持ちが、すとんと心に落ち着いた。だから、この仕事を選ぶことにした。勉強は最後までしたかったので、復学して卒業したけど、あっというまに持っていたすべてから離れてしまった」
志生は申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
「優果と透と過ごした時間は、何の裏表もなく楽しかった。何の未練もなくすべてから離れたといったら、嘘になるな。二人のこと、つながりを続けようとするくらい……好きなんだよ。私は勝手に飛んでいってしまったけど、二人もどこかで、いい風を感じたり、日光にあたったりして、生きていてくれますようにと、祈っていた……それは、簡単なことじゃないのに、ね」
志生の祈りは、優果にとって嬉しいものだった。
「志生、聞かせてくれてありがとう」
優果は静かに言葉を続ける。
「私、志生と透と過ごした冬は、とても楽しかった。ずっと、こうだったらいいと思った……」
しかし、この生活は終わることが決まっている。
「志生は、二月に入ったらそのうち行ってしまうし、透は、どうなるのか、ぜんぜんわからない。せめて、どちらか一人でも、いなくなってほしくない……いなくなったら、きっと、耐え忍ぶしかない日々の中で、また楽しいことや好きなものを忘れてしまう。今日だって、洗い立てのタオルを落としただけであんなに悲しくて、次の行動に時間が掛かった。このままでは、いつか、立ち上がれなくなってしまう……」
優果は志生をじっと見つめて、もし一緒に行ったなら、と考えながら話し続ける。
「でも、私の好きなものは、ここにたくさんあった。食べたいものがあるし、読み返したい本もあるし、陽だまりの中でゆっくり眠りたい。志生と一緒に行くのは魅力的だけど、おほしのこばこは買えないし、本も服もすぐに手に入らないだろうし、お昼寝もほとんどできなくなると思うし……たくさん、離しがたいものがある」
優果は、温かいお茶の入った湯のみを両手で包み込み、決心する。
「私は鳥にはなれない。だから、ここで、離したくないものを大事にするために、なんとかする。なんとかするよ」
身動きせずに聞いていた志生は、「うん」としっかりうなずいた。
「優果の決めたことを応援したい」
「ありがとう。具体的には、すぐに動けないし、不安だけど……」
「何かを決めるときに、不安じゃないときはないよ」
そうだけど、と目をそらした優果は、じっと見つめる透と目が合った。なあに、と優果が言葉をうながすと、小さな声がおずおずと言う。
「心配できる身じゃないけど……ここで、一人で、がんばろうとする優果が、心配だ」
すると優果は、「どうしても無理になったら、今は、まだ死ぬ手があるって、思っておくよ」とつぶやいた。
「それは」と志生が大変焦る。「私が言い出したことだし、確かに死ぬ手があることを支えにしていた時期はあったけど、人にそう言われるとすごく不安になるな……変なこと教えてごめん」
「や」と、透が割って入る。「可能性として、死ぬことは常にあり得るよね」
説得力のあまり、二人は黙り込んでしまった。透は暗い目で言葉を続ける。
「ただ、死ねないかもしれないよ。姿かたちが変わって、できないことも増えて、時間の流れが変わって、そんな中で、今まで参加していた世界で、生きていかなきゃいけないかもしれない……でも」
透の目は、静かな湖のように落ち着きを取り戻す。
「いいこともたくさんあるかもしれない。わたしがそうだったように。朝が来るのも、夜になるのも怖くなくなった。眠ることができて、食事ができるようになった。つまり、生きていく未知と、死ぬ未知と、どっちを選ぶかと言うくらいの違いなのかもしれないね」
透は身体を震わせて、ぶわっと羽毛をふくらませた。
「生きているうちに、優果に会いにいけばよかった」
「まだ遅くない」と志生が勢いよく身を乗り出した。
「試してみればいい。透は、生きている」
「試すって、何を」と気圧された透がのけぞってほっそりした。
「透の身体はまだ動いている。だから、透が身体に戻る方法を、試すんだよ」
志生は、涙がたまっているかのようにきらめく目を瞬かせた。
ほっそりしていた透は、落ち着いて丸く座り込むと、「試してみようか」とつぶやいた。
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