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十七 魂呼び
春を秘めた庭が見える縁側を、優果と志生が歩いている。渉に案内されて、二人は透の部屋に向かっていた。ふと、渉が「外から人が来ると、いい風が吹いている気がするんです」とつぶやいた。透の家は綺麗で整然としているのに、冬の青黒い影の中のように冷たい。
身体に戻る方法を試そうと透が合意して、志生は優果にさんざん話していた、魂を戻せるかもしれない方法と、呼ぶことの重要性を説明した。透が戻りたいと思うかもしれない機会を、志生はずっと待っていた。
窓をあけて身体のほうから呼ぶことで、今度こそ身体に魂が引き寄せられる、と志生は仮定した。
渉に連絡を入れて、優果と志生は次の週の日曜日に面会の約束を取り付けた。透の身体は、不思議と静かに生きながらえており、自宅に戻されていた。
優果の部屋の窓を少し開けて、二人は透の家に向かった。お屋敷のような家の中に入るのは、優果も志生も初めてだった。非常に緊張して顔もこわばっている。少し笑った渉が、二人をそっと案内した。
縁側を通り、階段を昇って、透の部屋にたどり着いた。渉は一度、お茶を持ってきますと身を引いた。
透の部屋にあるスーツや鞄は、うっすらと埃が積もっている。机の上は物置きになっており、中身の入った薬が少し残っていた。優果が夜に飲んでいるものと同じ薬である。閉じた窓のそばにある花かごだけが新しい。
志生は白い顔をしていた。透のことを話に聞いているのと、実際に目の当たりにするのとでは、衝撃が違う。
「透」と志生が呼んでも、やはり何も起こらない。
透の部屋は息苦しそうだった。たどり着くまでに通った家の中も、出会う人も、作り物が張り付いているかのように静かだった。
呼び戻していいのだろうか、と志生は不安になった。昔みたいに透に会いたい気持ちは強いが、ここはあまりにも息詰まる。
優果は睡眠薬を見つめて、自分が鳥になっていた可能性を考えた。しかし、目覚めない透を見て、私は鳥になるわけにはいかない、と強く思った。
足音がして、渉が戻ってきた。透のそばで、三人は静かにお茶をすする。
「透さんは」と渉がつぶやいた。「必要最低限しか話さない人でした。いえ、子どもの頃は、縁側に座っていたり、庭に出てきたりしたので、おしゃべりしていたと思います。でも、習い事や家の勉強が忙しくなると、透さんとしゃべる機会はなくなりました。就職されたことは知っていましたが、思いつめていることには、気が付けなかった……」
渉は苦笑して、「この家は息苦しいでしょう」と言った。
「失礼ながら息苦しいです」と志生がはっきり言って、優果はうろたえながらもうなずいた。
「私も、息苦しかった。この家が示す正しい道に沿うのは嫌で……でも、憎くはなかった。そこで、家にいながら正しい道を外れる方法を考えました。その結果、今は庭師をしています」
渉は透に目をやって、悲しそうにうつむいた。
「透さんと話すのは好きでした。でも、いつか話さなくなると、最初から諦めていました。ただ、こんな風に話せなくなるなんて、思ってもいなかった」
「私も」と優果は切り出す。「忙しいからと諦めて、透に二度と会えなくなってしまう可能性なんて、考えもしませんでした」
「そう、忙しいのよね、自分のことで」と渉はゆっくりうなずいた。
「自分の人生でいっぱいいっぱいだから、他者の人生まで、助けられない。勝手に、祈っているばかり」
三人は透が目覚めることを祈りながら、目覚めた後のことを考えていた。自分には透を助けることはできない。それならどうして、目覚めてほしいのか。
「透が目覚めたら」
優果はぐっと手に力を込める。
「私、会いたいって何度でも言います。会いに行きます。それは、私が会いたいからで、透のためには何もできないけど」
生きていてほしい、と優果は願う。風の中で笑っていた透と、好きなものを食べて、おはなしを聞かせてもらって、どこかへ出かけていきたい。一緒にいる時間が長かった大学生の頃から、ずっと地続きの未来にいるのだから、もう、好きなものも人も、忘れたくない。
渉が立ち上がって窓をあけた。風が通って、部屋の沈んだ空気が揺らめく。窓をあけることを忘れていたと、志生と優果は思い出した。
志生が窓に駆け寄って、「透」と呼んだ。渉は不思議そうに志生を見つめた。
「えっと、透の魂が、どこかへ行ってしまっているなら、外から帰ってこないかと思って」
志生は訥々、魂の民話を語った。渉は興味深そうに話を聞いて、「透さんが語るようなおはなしみたい」とほほえんだ。
「透のおはなしを知っているんですか」
志生が前のめりに尋ねると、渉はしっかりうなずいた。
「子どもの頃、そこらじゅうの草や木や鳥から、おはなしをもらうのだと、話してくれたんです」
「じゃあ、ユッカ・スミレ島の話もご存じですか?」
思わず優果が尋ねると、渉はいよいよ楽しそうに笑った。
「ええ、ええ。私の鉢植えのひとつを見て、こっそり話してくれたことがありました。小さな人が、風に乗って遊びに来るって」
透の物語で話がはずむと、部屋の中はだいぶ明るくなった。
最後に志生は、晴れているお昼頃に、ここの窓をあけてほしい、と渉に頼んだ。魂が帰ってくるかもしれないという突拍子もない話でも、渉は少し期待を乗せたらしく、快く了承した。
部屋を出る前に、優果はやわらかな風を感じながら「透」と身体に呼びかけた。再び目覚めた透と会える予感が、優果の身体中を駆け巡った。
おやつの時間ごろ、優果と志生は帰ってきた。「おかえり」と迎えた透の姿を見て、二人は安心したような、残念だったような、なんとも言えない気持ちになった。
窓を閉めて、みかんを食べながら、家にいた透に様子を聞く。
「花のかおりと、お茶のにおいがしたかもしれない」
「それは大正解だ。私たちが呼ぶ声は聞こえた?」
志生が期待を込めると、透はうなずいた。
「じゃあ志生が言ったように、やっぱり、窓が開いていることが重要なのかな」
首をかしげる優果に、それだけじゃない、と志生はうなる。
「嗅覚や聴覚は、窓が開いていなくても感じたことがあったよね。でも透、普段は何も感じないんでしょう」
「うん、何も」
「つまり、強く認識する必要があると考える」
「認識?」と透が首をひねる。
「透が、自分の身体があると認識すること。あるいは、透の魂が鳥として別のところにいると、呼んでいる私たちが認識していること」
「引き寄せられることはなかったけどね」
「問題はそれだな」
志生は手詰まりといった様子で腕を組んだ。
「あの」と優果が提案する。「鳥の透を、私たちが身体まで連れていったらどうかな」
「なるほど、とにかく現状に至るまでと逆の過程を辿らせるというわけだね」
志生は試したかったようだが、透は渋った。
「戻してもらう、というのは不本意だ。他者の手を借りないと戻れないなら、戻るべきではない」
「……やっぱり、このままでも」
言いかけた優果の指先を、やわらかい羽毛が包み込む。
「いや、戻るよ。ただ、一人で死んできたように、一人で戻らないと、意味がない」
翼をひらいて伸びをした透は、春を見据えるような光を灯した目で、優果をまっすぐに見つめた。
「わたしにも、志生のように動かせる手がほしい」
優果はふわふわの透を確かめるように両手ですくいあげた。小さな鼓動が、前へ前へと励ますように響く。
「あのさ、志生がわたしを呼ぶ声は、そばにいるようにはっきり聞こえたよ。優果の声も、前よりずっと近くに感じた。外へ飛び出したいという衝動はなかったし、引き寄せられることもなかったけど、わたしは確かに、二人を近くに感じた」
透のやわらかさを忘れまいと、優果は手のひらに意識を集中させた。もうすぐ、終わる。でも、そこからが本当の再会になる。
「もうすぐ二月だね」と透は話を変えた。「次はいつ集まる?」
焦らないで、明日の先へ行く約束を結んでいく。
「次の日曜日」と志生が提案した。「ちょうど立春なんだ。お祝いをしよう。ついでに食べたいものがあれば、また調達してくるよ」
「金平糖でも頼む?」
透が笑う。
「私、おほしのこばこがほしいかな」
「それ食べ物じゃないよ」
「でも、金平糖も入っているよ」
「用意しよう」と志生がうなずいて、透もゆっくりうなずき返した。
「ちなみにわたしは、ポンカンが食べたいです」
「あ、気に入った?」
「うん、おいしかった」
透にポンカン、優果におほしのこばこ、と志生が歌うように復唱した。
「私は、ケーキでも買ってきちゃおうかな」
「わ、食べたい」
どんなケーキがいいだろうかと口々に話しながら、優果は机の上に三つのケーキが並ぶのを想像していた。
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