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二 静かな夕方
起床してすぐに机の上を見た優果は、昨日の夢のような出来事が続いていることを知った。白い小鳥はかすかに、ふくらんだりしぼんだりしていた。
きしむ身体を起こしてカーテンをひらけば、からりとした白い明るさが部屋に広がる。冬がひたひたと押し寄せる窓は、はっとするほど冷たい。
「おはよう」と、透がふっくら身を震わせて言った。
「起きていたの?」
「まあ、半分くらいは起きていた。久しぶりによく眠れた気がするよ」
ふと、机の上の透がきらりと虹をまとったように見えた優果は、近づいて観察してみた。透の白い羽毛の中に、透明な羽根が混ざっている。夜の疲れた目では気が付かなかった小鳥の美しさを、優果はほれぼれと見つめた。
スマホのアラームが鳴って、いい夢をパチンと消されたように優果の表情が変わった。アラームを止めて、そのまま洗面所に今日の支度をしにいく。
朝食代わりのヨーグルトを出した優果は、鳥のご飯がわからないことに気が付く。
「ごめん、透が食べられそうなものがない」
「大丈夫、今はいらない」
「じゃあ水だけ置いておくね」
水を入れた小さな器が机の上に置かれる。身体を伸ばした透は水面を見つめた。高かったらしい。優果はあたりを見回して、ティッシュの箱やリモコンなどを器のそばに置いた。透は「ありがとう」と台の上から水にくちばしをつけた。
家を出る時間が近づくと、「早めに帰れるようにするから、待っていて」と夜の川を見つめていたときの顔で優果は言った。
「今日も出勤?」
「うん」
「わたしは、ここにいさせてもらうよ」
その返事のおかげで、優果は少しだけ楽に呼吸ができるようになる。
「いってきます」という優果の声に、「いってらっしゃい」と透が返す。優果も透も、家を出るときの挨拶をだれかと交わしたのが、数年ぶりだった。
戸締りの音が響くと、優果の部屋に静寂が降りた。
透は腹に、少しだけ力を入れてみた。ピッ、と身体から鳥の声が細く鳴る。それっきり物音はなく、透は再びまどろみの中へと身をゆだねた。部屋も一緒に居眠りしているような静けさが、辺りに満ちている。
ゆったりと光に抱かれた部屋の中、鍵の音がして透は目を覚ました。気配のうすい足音とともに、「ただいま」と優果がつぶやく。「おかえり」と透はやわらかに返す。
透が気がかりだった優果は、午後休をもぎ取ってきたのだった。
「鳥が食べられそうなものを買ってきたよ」
「やっぱり人間の食べ物はだめなんですかね」
「わからないけど、何か間違いがあったらいやだから。まずは身体に合わせてみようと思って」
優果は机の上に小松菜、りんご、殻付きシードを並べた。透は並べられた食物のそばで、首を傾げたり逆さに見たりしてよく観察した。
「大きなりんごだ」
「普通のりんごだけど、透と同じくらいの存在感があるね」
「食べるのが好きな人なら、まさに天国のような状況かもしれないね。まあ、ここも天国のようなものか」
「天国なら、もっと明るくて安心できる場所がいいと思うな」
殻付きシードの袋を見て、「これが文鳥のごはん?」と透が身体を伸ばした。
「うん。殻付きのほうが楽しいらしいよ」
「ふうん。いろいろありがとう」
「どういたしまして。でも、私が好きでやってることだから」
「それでも申し訳ないよ」
「そっか。あ、りんごは私が食べたかったの。切っちゃうね」
優果はひょいとりんごを持ってキッチンに行った。
ほどなくして、運ばれてきた二皿が机の上に並べられた。ひと皿はくし切りにされたりんご、もうひと皿は人のひと口サイズをさらに薄く切ったものだ。しゃきりとみずみずしい音を立てて、優果は久しぶりのりんごを味わった。
透はりんごをじっと見つめて、そっとうつむいた。その様子に気が付いた優果は、はっとして、「いらないのだっけ、ごめんね」と笑って、透の前からりんごを下げた。
「うん、はっきり言わなくてごめん。食べられないんだ」
「わかった。何かあれば、いつでも言ってね」
透はまるく座り込んで、目を細めた。
「優果はいつも、わけを聞かないでくれるね」
「そうかな」
「そう感じるよ」
優果は口をつぐむ。
「そういう優果の優しさに、わたしは甘えているのかもしれない」
「甘えていいんだよ。だって、透はどうしているかなと思っても、私、今回は連絡のひとつも取れやしなかった」
まっすぐな視線が透を差す。その目元には疲れの色が強く浮かんでいる。
優果と透が最後に会ったのは二年以上前だった。透が県外の離れた地方に配属されて、戻ってきたらまた会うはずだった。十分に休めない日々は、会いたい、と思う心を乾燥させてしまう。優果は懐かしさをたどりながら言う。
「大学生のときは、会いたいと思えば会えた。会えなくても近くにいるような錯覚があって、姿を確認したくて、すぐに行動することができた」
透は身体を震わせて、「その数年前の優果のおかげで、わたしは今、ここにいるんだと思う」と強く言った。「鳥になって呆然としていたら、ほそく差してくる陽光のように思い出したんだよ。だれにも会えなくなった大学二年生のとき、優果が少しでも会いたいと連絡し続けてくれたことを」
透明な羽根が遠くの砂粒のように光る。優果は、透の細い手を思い出した。
大学二年生になったとき、透が姿を現さなくなった。優果は普段と変わらず連絡を入れて、時折会いたいと伝えた。七月になってようやく、透が優果の前に現れた。顔も身体も隠すような格好でひどく緊張していた透にとって、「会えてうれしい」という優果の第一声は、何よりも嬉しいものだった。
それからしばらく、透は言葉がのどにつっかえているような様子で、あまり食事をしなかった。だから、透が食事を遠慮する姿を見るのは、優果にとって二回目である。食べたいと透が言うまで、待つことができる。
「優果はさ、わたしがいても休まるの」
透の問いかけに思わずほほえんだ優果は、「透がいるほうが休まる」とため息をついた。
「一人でいると、いい結果を出すためにもっとがんばり続けないといけないって考えてしまうから。ここのところ休日は、あんまり動けていないんだけどね」
開かれた形跡のない段ボールまわりには、資格試験の問題集や自己啓発書が置かれている。
「小説本は、ないんだね」という透の素朴な疑問は、優果の頭に響いた。
「そういえば、もうずっと、読んでいない」
日々積もり続けた静けさでいっぱいの部屋に、夕暮れが染みて冷えていく。私、物語が好きだったのに、と優果は胸いっぱいに思った。
「ねえ透。またなにか、おはなしして」
ほのかに幼さを秘めた懐かしいまなざしが、透にそそがれる。優果は、大学の食堂で向かい合っているような心地がした。
かつて透は、優果にせがまれてたくさんのおはなしを語った。所属していた物語創作会で発行する会誌を読んで以来、優果が透の物語をだれよりも楽しみにしていたのだ。
顔を合わせればひとつ、ふたつくらいは、透がおはなしを語っていたはずであると、優果は思い出していた。
しかし小鳥は、「物語は、ない」と告げた。「わたしが話すのは、わたしの物語ではなく、秋の金色の夕暮れや、春いちばんの風から教えてもらったものだ。もうずっと、聞こえないんだよ」
優果のまぶたが、ゆっくりとじて、ひらく。透はおはなしの代わりに、訥々と、仕事に生活の真ん中を取られたことを話した。
一人と一羽の影がすっかり沈んだ部屋の中、優果は音もなく立ち上がって灯りを点けた。
「志生もきっと、透の物語が聞けなくなったことを残念がるだろうね」
「ああ、志生」と透は呼びかけるような声を上げた。「志生は自分で、生活の真ん中に仕事を置いたんだよね」
「そうだったと思う」
「こっちに帰ってきたら、志生の生活の話を聞きたいなあ」
「たしか、三年に一回は帰るかもって言っていたよね」
年を数えて、優果は「今年、会えるの?」とつぶやいた。
「そうだね」
透はおっとり答えた。
普段は米作りを、十二月から二月は酒造りをしている志生は、三年に一回、酒造りの代わりに帰省を選べることになっていた。そのことを聞いた優果は「七夕のおはなしよりも長いね」とさびしがったが、「私たちには通信機器があるよ」と志生は笑っていた。
とはいえ、もともと熱心にスマホを見ない志生は返信に間があることが多かった。優果が最後に志生の近況を知ったのは約一年前、今年の年賀状のやり取りのみである。
「大事なことなのに、どうして、忘れていたんだろう」
聞くともなしに透のほうを見ると、小鳥はくちばしを羽にうずめて寝息を立てていた。
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