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三 懐かしい人
家に帰れば小鳥のいる生活は、優果を夜の川から遠ざけた。スマホで知り合いの華やかな近況報告をぼんやり流し見することはなくなり、代わりに透や豆苗を観察しながら食事をした。透の羽毛などがわりと溜まるので、掃除機をかけた。それだけで部屋は、こざっぱりと気持ちよくなった。
透が来てから五日目、ただいまという暇もなく部屋に帰ってきた優果は「帰ってくるって」と息を切らせて言った。
「なにが?」
「志生が」
取り出したスマホの留守電を再生すると、志生の声が流れた。
『優果? ……気が急いて電話しちゃった。久しぶり。三人で会いたいから、会えそうな日を教えてよ。あ、電話じゃなくていいからね。またね』
「透のほうにも、留守電が入っているかもね」と優果は床に倒れたまま言う。
「……走って帰ってきたの?」
「うん。はやく透に知らせたくて」
「疲れているんだから走るのはやめなさい」
「え~」
「あぶないよ、本当に。でも、気持ちはわかる」
なんとなく優果には、透が困り顔でほほえんでいるように見えた。
最も近い確実に休みの日は、来週の日曜日だった。透は今スマホが使えないということにして、優果の家で会うことが決まった。
「ほぼ三年分のおはなしが聞けるね、透」
「きっと志生のことだから、町の民話も集めているんじゃないかな」
いくつかの山を越えた先の、明るくひらけた土地、トオシという町で志生は生活している。彼女が在学中にフィールドワークのために滞在した町だった。
民俗学を勉強していた志生は、一度だけ、物語創作会の会誌に小説を載せたことがある。それは、優果と透が入学する前の冬に発行された会誌に掲載されていた。バックナンバーを読み漁っていた読み専門の優果が発見し、透に勧めた。二人はすっかり志生の小説のファンになったが、志生の作品数は五年間でひとつである。
小説のみならず志生本人のことも好きな優果たちは、懐かしい人に会えることを心から喜んでいた。一方で、透の現状をどう伝えるべきかと頭を悩ませた。
「普通に、鳥の透ですと挨拶しようかな」
「びっくりして倒れちゃったら困るよ」
「でも、優果は倒れなかったろう」
「いい幻だと思ったんだよ。いつもゆめうつつな心地だったから……」と優果は苦笑した。「うちに来たら、まず透が鳥になったと口頭で伝えるよ。それから、会ってもらおう」
簡単な段取りが決まって、優果はスケジュール帳をひらき、来週の日曜日を丁寧に丸で囲った。
食事のとき、透はおずおずと近づいて、「何か甘いものを少しいただけますか」と尋ねた。
「みかんでもいい?」
「もちろん」
優果は房をひとつ取り出し、実が出るように剥いて小皿に置いた。
やや間があって、透はそっとついばんだ。くちばしを細かく動かして真剣な顔をしている。
気にしないように食事を続けていた優果は、「おいしい」と小さな声が聞こえてきてほっとした。死なないでほしいから食べてほしい、しかし食べたくないときは本当に食べられないことを知っている。だから、食事のことは優果から持ちかけずに待っていた。
「おいしいし、穏やかで、不思議と生きた心地がする」
「私も、同じ」
ただ片付けていくような時間ではなく、腰を落ち着かせて呼吸することができるような時間だと、優果は思った。遠い春を秘めた冬芽のように、来週の日曜日への期待が胸に抱かれて、ゆったりと時が流れてゆく。
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