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五 透の身体
死に際という言葉に驚いた優果たちは、透がずっと夢の中にいるものだと思い込んでいることを知った。確かに、透から見たら夢かもしれない。しかし、優果にとっては、続いている現実の中で、鳥になった透と、帰ってきた志生に出会っただけである。
透は、もうすっかり生活を続けることがいやになってしまい、全部終わりにしたのだと話した。自身の好きなことさえ思う余裕がなく、労働に追われる。家に帰れば、耐えがたい価値観と女性としての将来を強いられる。身動きが取れないまま、この先もただ途方に暮れるような時間が続くのだと感じて、無理になってしまった、と。
優果が手を伸ばすと、透はおとなしく手の中に包まれた。コトコトと急ぎ続ける鼓動が鳴っている。
志生は何やら考え込んでいたようだったが、ふと、亡くなったという知らせは受けたのかと優果に尋ねた。もちろん、優果は知らなかった。
「それなら、まだ生きている可能性はないだろうか」
「私のところに、通知がきていないだけかもしれないよ」
「まあそうとも言えるけど、とりあえず仮説を聞いてほしい」
志生が話した仮説は次の三つだ。
一、生きた身体から抜け出した魂が、今ここにいる透である。
二、透の身体そのものが変化し、今ここにいる透になっている。
三、透の身体は死を迎えたが、魂のみが今ここにいる。
どれもありうる話だ、と優果は頭が痛くなった。
本人、ならぬ本鳥はどうでもいいといった様子でさえずった。
「本物の鳥みたいなことをするね」
「鳥だよ。わたしは今の生活が好きなんだ」
志生は小さくため息をつき、鍋のおかわりをよそいに行った。
透がこの世界のどこにもいなくなるなんて、と優果は考えていた。切れ長の目にやわらかな光を宿して、風に遊ばれる長い髪をそのままにしていた透。模型を作っているときや製図のときは長い髪を結んでいた。記憶の中の透は、若い。優果は、疲れ切った透を知らない。知っていたなら、と後悔しかけた優果は、こんなことにならなければ、ただ疎遠になっただけかもしれないと暗い気持ちになった。
全部終わりにするための、死。それは淡い期待になり、優果の心を揺らす。
「人が鳥になった話を集めてみるよ」と、おいしく食べ続けていた志生が言った。
「それから優果は、透の家と連絡を取ってみてほしいんだ」
「透の連絡先しか知らないよ」
「まあ、そうだよね。だれかが代わりに、透の電話に出ることを祈るしかない」
「わたしの電話には、だれも出ないと思うけど」
透はどうでもよさそうに言って、ふと「まあ、一人くらいはもしかしたら」と付け足した。
「だめもとでやってみよう。だれか出たら、会う約束をしていたのに来なかった、ということにして、透に会いたいのだが、どうしたのかと聞けばいい」
「でも、本当に、だれも出なかったら?」
「毎晩、電話し続けよう。透に、『メールも何も返さないことはないから、音沙汰ない場合は電話か何かし続けて』と言われていたとか、そんな理由をつければいい」
志生の作戦を、透はじっと聞いていた。
「まず、一回かけてみよう」という志生の提案で、優果は一度電話をつなげた。緊張の中、呼び出し音が鳴り続け、留守番電話につながった。電話が生きていることにどこかほっとしながら、まずは「電話でもメールでもいいから連絡をください」と優果はメッセージを残した。
「私、人が出たときにうまく話せるのかな」
「じゃあ、私から掛けようか」
正直なところ優果は、志生に頼りたい思いだった。しかし、丁重に断った。優果自身も、何か行動したかったのだ。
次の日曜日に、また現状の報告会を兼ねて会おうと決まった。優果は志生に、何かあればすぐに連絡してほしいし、いつでも家に来てほしい気持ちを伝えた。久しぶりに知っている人の顔を見て、話して、引き留めたくてたまらなくなったのである。
ほほえんだ志生は、「ありがとう。ここは、心に思い描く実家のように、ほっとするよ」と言った。
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