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六 抜けがら
病院から帰るバスの中、優果は仕事の疲労と病院での緊張が身体からにじみ出ていくのを感じていた。窓に映った、椅子に身を沈める優果の姿、その向こうはやがてひらけて、遠くに橋が現れる。羽渡川の上を通っているのだ。点々とした橋の灯りが、ゆったりと後方へ流れていく。優果は目をとじて、かすかな呼吸以外なにも感じられなかった青白い透の姿を思い出す。
志生との打ち合わせ通り、優果は透の携帯に毎日電話をした。残業前の間食を買いに行く時間、留守番電話につながるばかりでも、優果にとっては自分だけの大事な休憩時間のように感じられた。
木曜日の夜、ついに人が出た。
『もしもし……』
落ち着いたトーンの声を聞いて、優果の心臓は大きく脈を打った。名乗って、透の友人であることを告げると、相手は透の叔母であると答えた。
作戦通りに事が進む。この前、透さんと会う約束をしていたのに、来なかったんです。透さんがどうしたのか、ご存じないですか……優果の声は、不思議と落ち着いていた。
『今は、人に会える状態ではないのです』
通話相手はそう言った。優果は頬が熱くなるのを感じた。会える状態ではないだけで、つまり、透の身体は、生きているのだ。
「どうしても会いたいのです。話せなくてもいい、透が生きていることを、ひと目、確認できたなら、どんなに安心するか……」
優果は思わず言った。本当に透の身体があることを確認したかった。無理を言っているとわかっていたが、このまま引き下がることはできなかった。通話相手は悩んでいるような様子だった。
ほどなくして、『わかりました』と返事があった。相手は百住(ももずみ)渉(わたる)と名乗り、明日金曜の夜はどうかと尋ねた。
優果は、土曜日の午前と引き換えにしてでも、明日の夜は会社を飛び出そうと決心した。
待ち合わせ場所となる駅の名前を、優果は大事にくり返した。それから一旦電話を切って、渉の携帯から掛けなおされ、連絡先を交換した。
帰りの電車を待っている間、優果は志生に連絡した。志生は、「小鳥は透の身体から抜け出した魂である、と仮定できるわけか」と考えをめぐらせているようだった。
優果が帰宅するとすぐに、電話がつながったと透は知らされた。
「透の身体、あったよ」
「そっか。なんか落とし物が見つかったみたいな気分だ」
「大きすぎる落とし物だよ」
「まあ、うん、よかったね。そっか、身体があるんだ……」
透は人ごとのような声色で、遠い目をした。どこかで横たわっている身体を思っているのかもしれない。
「渉さんっていう、透の叔母だという人が出たよ。明日の夜、たぶん病院に連れて行ってもらえるのだと思う」
「渉さんか」と透は遠い目をやめて言う。「信用できる人だよ」
「それはよかった」
渉について透はそれ以上話さなかったが、ふと、あたりをきょろきょろした。
「どうしたの?」
「優果、花でも持って帰ってきた?」
「ううん。花なんてないよ」
透は不思議そうに、「一瞬、花の香りがしたような気がしたんだ。まあいいや」と言って眠そうに目を細めた。
いつもの金曜日を乗り切り、大波から逃げるように会社を飛び出した優果は、電車を乗り継いで待ち合わせの駅に着いた。
指定された改札を抜けた先に、待ち合わせの人々がまばらにいる。登録した渉の電話番号にかけられると、すらりと深緑色のコートを羽織った短髪の女性が、携帯電話を手に取った。ぱちりと二人の目が合う。
「高梨さん、ですね」と通話状態のまま渉は言った。切れ長の目が透に似ていた。
「透の叔母の、百住渉です」
「高梨優果です。今日はありがとうございます」と頭を下げる。「どうしても透のことを知りたくて」と言った優果は「透さん」と言い直した。
渉は表情をゆるめて優果を見つめた。
「呼びなれた呼び方でいいですよ。あんまり緊張しないでくださいな」
「すみません、お気遣いありがとうございます」
優果は今更ながら、着ていたコートのボタンが留まっていないことが気になった。慌てて飛び出して来たまま、身だしなみを整えていない。ぼさぼさの人が来たと思われたであろうことを気にして、そっと髪に触れたり、ボタンを留めたりした。
そんな優果をぼんやり見ていた渉は、「いきましょう」と思い出したように言った。
大学病院行きのバスに乗って、二人はゆるやかに向かった。渉は、「高梨さんと透さんは、なんだか、雰囲気が似ている」と切れ長の目にやわらかな光を映していた。
病院に入ると、優果は透の身体が以前と異なっていることをしんと感じた。清潔のにおいの中、たくさんの時間や感情、言葉を含んだ沈黙が漂っている。
渉に続いて入った病室の、窓際のベッドにカーテンが引かれている。渉は一度、カーテンの向こうに姿を消した。「透さん、高梨優果さんが来ましたよ」と小さな声がした。
優果の頭は、じんとするほどの沈黙で満たされている。渉の合図を受けて、ぐっとあごを引いた優果はカーテンの向こうへ足を踏み出した。
透は、管がつながれている以外、普通に眠っているようだった。かすかに胸が上下しており、瞼はぴったり閉じられている。優果が知っている透より、ひどく痩せていた。
優果の身体中に熱が渡っていく。透は生きている。近づいて、透、と呼んだ。身体はあるけど、本当に透はここにいないのだろうか。家にいる小鳥を思いながら、もう一度、名前を呼ぶ。優果の声は沈黙に塗り替えられていく。
優果はぼんやりとあたりを見回した。ベッドのそばにある小さな机には、フラワーアレンジメントが置かれている。淡く明るい色が、沈黙に塗りつぶされそうな優果の心に流れ込んだ。「きれい」とつぶやくと、「ありがとう」と渉が応えた。
「ここの静けさがさびしくて、最近持ってきたんです」
優果が顔を近づけると、花はふんわり香った。
「もっと早く、会えていたなら」と目を伏せた優果は、こんなことにならなければ会えなかっただろうとも思い、黙り込んだ。
「容体は安定しています」
渉は現状を訥々と話した。重大な障害もなく、いつ目覚めてもおかしくない。しかし、魂だけすっぽり抜けてしまったかのように眠り続けている。
「目覚めた病室がさびしくないようにと、庭の花を持ってきましたが、今のところ花に慰められているのは私だけです」
透は幼い頃、庭を好んでいたと渉は語った。家の中を抜け出し、庭師の渉のもと、緑の中に身を置いた透の目は、瑞々しく輝いていたらしい。優果もまた、楽しそうなときの透の、光を湛えた目が好きなのだと話した。二人はほほえみ合った。
透との別れ際、優果はすがるように「透」と呼びかけた。目を覚まして、という言葉が出かかって、飲み込まれる。必ず助けられるわけではない他人である自分が、目を覚ましてほしいと願うのは勝手だと思ったからだ。
透の身体にはしんしんと沈黙が積もっていくばかりだった。
優果と渉は、別れ際に詳細な連絡先を交換した。
「何かあったら連絡します」と渉から申し入れられ、優果はほっとした。
「透さんを知っている人と話すことができて、よかった」と渉は月影の中でほほえんだ。
優果は病院の近くでバスに乗り、そのままずっと揺られて家の近くまで帰ってきた。玄関の鍵を開けたとき、ふと、誰もいなかったらどうしようと不安がよぎる。震える手に力が込められて、ぐっと扉が開く。
「おかえり」と遠くで声がした。ただいま、と優果は身体の力が抜けるのを感じた。
腰を落ち着かせると、地に足のつかない奇妙な疲れを優果は感じた。透の身体に会ってきたのに、目の前の小鳥も透である。本当に透なのだろうかと、優果の頭の中はぐらりとかき混ぜられる。
「何度か優果に呼ばれた気がしたよ」
透は身体をひねって不思議そうにした。確かに病室で呼びかけたけど、と今日の状況を優果は詳しく話す。
「花が」と透は反応した。「花が、あったんだね」
昨日、花の香りがしたような、と透が言ったことを優果は思い出す。優果は胸をどきどきさせて透を見る。
「じゃあ、透は、まだ身体に帰れるかもしれないね」
透は羽をいじりながら、「ん」と曖昧な返事をした。
優果は遠慮がちに、「透は……目覚めるかな」と聞いた。目覚めたくないの、と聞こうとしてやめたのだった。
「わからないね」
透は即答して、「今日はお疲れさま、ありがとう」と優果を労った。それから、シードを食べたいのでお願いしてもいいですか、と切り出した。透からの食事のお願いに、優果は張り切って立ち上がった。
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