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七 人の魂の話
土曜の眠そうな日の光が部屋の中に差し入っている。帰宅した優果が一息ついていると、チャイムが鳴った。リュックの志生が朗らかに挨拶をする。
透は、志生が持ってきたみかんをしげしげと観察している。その間に、優果は昨日の病院であったことを詳しく志生に話した。名前を呼ぶ優果の声や花の香りを透が感じたこと、透と身体がつながっている可能性があることを聞いた志生は、嬉しそうにうなずいた。
「私も、図書館でいくらか話を集めてきたよ。主に民話だけどね」
志生は、鳥の鳴き声や習性から着想された話が多かったと語り、次に人の魂に関する話を簡単に紹介した。魂が空を飛んで散歩していた話。人の身体から魂が抜けだすときに、鳥などの動物の形をしている話。そして、それらの魂がちゃんと身体に帰った話と、帰らなかった話。
「帰らなかった話は、遠くへ行きすぎたり、木に引っかかって鳥に食べられてしまったりする。帰った話は、細い糸をたどったら身体に戻ったとか、自分を呼ぶ声のほうへ飛んでいったら戻ったというものがあった。ところで、透」
優果にみかんをむいてもらっていた透は、ちらと志生を見る。
「どこかへ長く伸びている細い糸は、見える?」
「見えない」
「じゃあ、呼び戻すほうがいいんだろうな。実際に、優果が名前を呼ぶ声は聞こえたみたいだし」
志生は、呼ばれて戻った場合の民話をひとつ、語った。
それは、まだ広く風通しがよく、草はらがどこまでも波打っていた頃の話。熱を出して床に臥せていた子どもがいた。家の者は忙しく、遊び相手はいない。外から吹いてくる風を感じながら、やわらかな光を眺めるしかない。あまりにもつまらなくて遊びに行きたいと思った子どもは、ふと身体が軽くなるのを感じて、そのままするりと浮かび上がった。魂が身体から抜け出したのである。
縁側から外へ、気持ちのいいお昼の日光の中を、すいすい飛んで行った。波打つ草はらを越え、泡立つ緑の上を通り、山の上からきれいに輝く田んぼを眺めた。
日が沈み始めると、子どもは眠たくなってきた。大きな木の上に止まってうつらうつらしていると、烏の声がよく聞こえる。食べられたら大変だ、飛び立たないと。しかし、一度止まると今度は宙へ身を躍らすのが怖い。急に風が冷たくなってきたとき、村のほうから自分の名前を呼ぶ声が朗らかに響いてきた。そよ風のように気持ちよく届くその声は、子どもの母の声だった。
声が聞こえるほうへ吸い寄せられるようにして、子どもは飛び立った。ぐんぐん飛んでいった。そうして、縁側から自分の身体が寝ている部屋へするりと入り込んだ瞬間、強く引き寄せられる感覚があって、思わず目をつぶると、ぐんと身が重くなった。目をひらいたら、心配そうにのぞき込む母親が安心したように子どもの名前を呼んで、頭を撫でたのだった。
「確かに名前を呼ぶ声はした」と透はみかんを食べながら言った。「でも、わたしはまったく飛び立とうと思わなかったし、引き寄せられることもなかった」
「そうか、じゃあいろいろ試す必要があるかもね。窓を開けておくとか、日の出ている時間にするとか」
「志生」
透は光を湛えた目でじっと見つめる。
「わたしは戻りたくない」
おもむろに飛び立ち、窓のそばに止まった透の羽がキラキラ光る。
「ここにいたい」
優果も同じ気持ちだった。前にも後ろにも、行きたい場所はない。ここにいたい。
「わかった」
志生はあっさり話を終わりにした。ただ、澄んだ目は意思をもって、静かにきらめいていた。
「ひとつ、思いついた」と透は物語った。「身体を抜け出した魂は、山を越えて、夕日がなでた海を見つけた。その上をすいすい飛んでいくうちに、群青色が降りてきて、頭上はやがて銀砂を撒いたような天蓋に覆われる。空を眺めながら水面近くをすべり続けると、温かい常夏の島にたどり着くんだ。美しい鳥たちが木の実をついばむ様子を見て、ふと空腹を感じる。思い切って、ほかの鳥をまねて木の実にかぶりついたとき、魂は自分が鳥になっていたことに気が付くんだ。そのまま幸せに暮らしましたとさ。……ほとり、ひらり、ふう」
懐かしい透の締め言葉が、話を閉じた。なめらかな語り口に、優果と志生は子どものように目を輝かせた。
「おはなし、聞こえたの?」
「自分の透明な羽根が隠し持っていたおはなしだ」
ふふ、と優果は志生にほほえみかけた。
「つまり、透自身のおはなし?」なんて志生がはっきり言うと、透はピッと鳴いてごまかした。
夕飯の話をしていたとき、志生が思い出したように「来週の冬至を祝いたい」と提案した。聞けば、志生のトオシの町では、冬至の夜を楽しく過ごし、次の日の朝は近しいたちと日の出を見るという習慣があった。その習慣が大変気に入っていた志生は、大好きな二人とぜひ行いたいというのである。
十二月二十二日、今年の冬至は来週の金曜日だった。金曜日から土曜日にかけて、志生が家に泊まることもきまり、優果は嬉しくて、ずっとにこにこしていた。
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