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九 水面下
なんとか昨日のうちに仕事を納めた優果は、穏やかな十二月三十日を迎えた。午前中に家を出て、年末の静けさに満ちた商店街を通り、明るい公園に着く。ベンチには志生が座っている。
優果に気が付いた志生は、荷物を膝にのせてとなりを空けた。
志生は透には告げず、抜け出した魂を身体に戻す方法を調べていた。その報告を、優果は外で聞いている。
「本当に、戻る必要はあるのかな」と優果は言う。
帰ると透がいる生活が失われるかもしれないと思うだけで、優果は身体が冷たくなっていくような気がした。
「志生、私たちは人に戻った透の生活を保障できない。私たちそれぞれの生活が続くだけ。戻ってほしいなんて、無責任じゃないのかな。透は、戻りたくないと言ったでしょう。私は、透が先にいなくなってしまうのだとしても、鳥のままいてくれたほうがいい」
優果のほうを見た志生は、迷子のような表情をした。口をひらきかけ、悩んでいる様子で、少しずつ志生の思いが語られる。
「今は、魂が身体とつながっているけど、もし途切れたり、身体が失われたりしたら……透は変わってしまうかもしれない。本当に鳥になって、話さなくなるかもしれない」
志生は言葉を探しながら、さらに付け加えた。
「なんだかずっと、やさしい悪夢にいるみたいで、怖いんだ」
鳥のしぐさをする透を、優果は思い返した。シードを食べて、毛づくろいをして、水浴びをする。今は静かだけど、もし、言葉を失い、鳥の鳴き声を発して、ばたばた飛び回って、窓を開けるためには鳥かごに入ってもらわないといけなくなったら。
考えないようにしていた可能性が、浮かんだり沈んだりする。病院で横たわっていた透の姿が優果の頭に浮かぶ。食事ができず、筋肉が衰えていく身体は、どれくらい生きていてくれるのだろう。
「志生は、どうしたいの」と優果は問いかけた。
「本当は人に戻ってほしい。でも」と志生は力なく笑う。「優果の言うように、戻ってほしいというのは無責任で、私個人の願望でしかないことも、よくわかる。だから、もし、もしだよ、透が戻りたいと言ったら、その時にはすぐに実行するために、呼び戻すことができるかもしれない方法を、知っておきたい。知っておいてほしい」
「透が戻りたいと言わなかったら?」
「何もしない」
志生はまっすぐに優果を見た。ゆっくり瞬きをして、優果は「方法を教えて」と言った。
「もう一度、身体のほうから透を呼ぶ」
志生はすぐに答えて、「呼ぶ」ことについて話した。
物語上で魂が帰ってくるときは、身体のほうから呼ばれる場合が多いこと。存在を認識するときは、名前が重視されること。
幼い子どもが魂抜けをしてしまった話では、母が名前を呼ぶ声で身体に帰っていった。類似の話が複数あり、名前を呼ばない場合も、身体の近くで発される声が魂に聞こえる描写がある。
また、死の淵にある人間が呼び戻されるとき、多くは、親しい人が死にゆこうとする人の名前を呼んでいる、という点に、志生は着目した。
「魂が帰る話では、空間に開放されている扉や窓などがあった。つまり、透の身体側と、魂側と、ちゃんと窓を開けた状態で、名前を呼ぶ」
身体側の窓を開けるには、叔母である渉の協力が不可欠だ。渉に窓を開けてもらうか、優果が再び身体のほうを訪ねて、窓を開けなければならない。
「もし、もしも透が、戻りたいと言ったときには……行動する。行動するよ」
優果の言葉を聞いて、志生は表情をやわらげた。
陽光が降り注いでいるとはいえ、冬の風の中でじっとしていた二人は身体の芯が冷たくなっていた。ぱっと立ち上がった志生は「帰ろうか」と歩き始めた。
すぐに立ち上がれなかった優果は、思わず「待って先輩」と言った。志生が、恥ずかしそうに振り返った。
優果は志生のとなりに来てから、「ごめんなさい、思わず」と首をすくめる。
「ま、気にしないでよ。……ありがとう」
日向のそよ風みたいな声で志生は言った。
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