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ブゥ、ブブブッ
今日、私は彼氏の前で初めて放屁を晒した。
お父さん以外の男性の前で、自分のおならを聞かせることは初めてだった。
おならをした後の一瞬の沈黙の間、私の脳内には一瞬隣人のことがよぎった。
ブブブーッ
ベッド沿いの壁から響く隣人のおならで目覚めたのは、今年入って何度目だろう。とくに今日のおならはいつもに増して威勢が良い。
目覚まし時計を見たら、午前11時。休日はこのくらいの時間に起きるのが丁度良い。隣人さんに丁度良いタイミングで放屁してくれたことに心から感謝の念を送りつつ、洗面所に向かい今日のデートの準備をする。
彼とは付き合い始めて3年目。
マッチングアプリで出会った私たちは、すぐに意気投合し、3回目のデートで彼に告白されて交際がスタートした。
交際当時にコロナが流行り出したので、私たちはほぼ毎週末彼の自宅で愛を育んでいた。
今日は彼の家でたこ焼きパーティーをする予定だ。きっとなんやかんやで映画を観たあと、セックスをするお約束の流れになるだろう。
最初の頃は、私の家に行ってみたいと彼から催促されることもしばしばあったのだが、彼と過ごす時間のなかに不定期的に聞こえてくる隣人のおならの音が聞こえてきて、雰囲気をぶち壊されるのが嫌だったので、やんわり「部屋が狭いから」という理由で断っていたら、いつの間にか私の家に来たがることはなくなった。
交際3年目となると、ほとんどのカップルはマンネリになりがちという説をよくインターネットの記事で目にする。本当にその通りだな…なんてここ最近つくづく実感する。自宅デートが多いことも理由のひとつだろう。
周りの友人や同期は、未婚者が少なくなった。
3人目の子どもを持つ友人だっている。
私と彼は今年で30歳、お互い結婚に向けて動き出すには丁度良い時期ではなかろうか。でも、彼から結婚を意識するような発言は一切ない。
昨日、中学からの親友のゆっこから結婚報告のLINEが来た。
ゆっこは、1年の交際を経て30歳の誕生日にプロポーズを受けたらしい。
私は私で結婚を急いでいた。
できれば、今の彼と30歳のうちに結婚したい。
そして、32歳までに妊娠するのが理想だ。
もし彼が、私と結婚するつもりがないなら早めに彼と別れて、交際前から結婚を前提として新しい交際をはじめなくては。
彼のことはもちろん大好き。だけど、30歳までに結婚することのほうが大事だ。そう、私は内心結婚に焦っていた。
30歳まであと10ヶ月。
とりあえず今日のデートから、彼を試してみたいと思った。
本当は「私と結婚する気ある?」なんて聞けたら苦労はないのだが、「結婚する気ない」と返答された時に別れ話になってしまう気がして、なかなか切り出すことはできない。30歳を目前にした女にはとにかく時間がないのだ。このままダラダラ付き合うつもりはないし、彼の本心を探りたい。
そうだ。いっそのこと、彼の前で放屁して試すのはどうだろう。
結婚をしたら、当たり前のように一緒に住むことになる。
この時代、お互いのライフスタイルを尊重し、あえて別の場所で暮らす夫婦も少なくはないらしい。そんな夫婦生活をしている人の記事をネットで読んだことがある。
私はできれば、結婚するなら私は彼と一緒に暮らしたい。
なんならお互いに堂々とおならができるくらいの関係で、人生を長く共にしていきたい。
愛する人の前で放屁を放つ。
この難関さえ突破すれば、私自身を取り繕うことなく、いつでも私らしく、ありのままで振舞い、彼からも愛される存在であり続ける自身が持てる気がする。
もし、私のおならが臭かったら「くさいんだけど!むかつく〜」「君のおならもなかなかなもんさ」だなんて会話をしながら笑い合う。そんな仲睦まじき関係を築いていけたら、それはとても素敵なことじゃないか。
私の放屁で、彼が私との結婚生活を彷彿してくれたら大成功。
私たちは、「カップル」から「家族」に一歩近づけるかもしれない。
でも、もし彼が「おならをするなんて、下品な女だ。ありえない」なんて幻滅されたら私達の関係はそれまでだ。
今後も恋人から夫婦に進展することは非常に厳しいだろう。
彼の本心を放屁で探ることは、一見、滑稽に思えるが、私の今後の人生を左右する出来事となるだろう。
私は決めた。今日こそ彼の前で屁をこく。大きな音をぶっ放してやる。
やるぞ、絶対に。
17時に、彼の家から最寄りのスーパーで待ち合わせ。
彼はスーパーのカートを引いて入り口で迎えてくれた。
せっかちな彼は予定よりも先にお店に入り、私を待っている間、カゴの中にたこ焼きの材料を入れていたようだ。
今思えば彼は一度も遅刻をしたことがなかった。
それどころかいつも一歩先を読んで行動してくれる。
たまにお出かけする時は、前日に下調べをしてくれているらしく、知らない場所をエスコートしてくれる。そのおかげで、デート中は道に迷ったことはないし、「この先どうする?」なんてグダグダしたこともない。
デートプランは彼の頭の中にあるので、できるだけ私のほうからも口出ししないようにしている。
口出ししたのは、過去に一度。
付き合って3ヶ月が経つ秋頃、彼が肉じゃがをふるまってくれる日の買い物中、私が「今日はなんだかシチューが食べたくなってきた。シチューに変更しない?」と彼に提案してみたことがあった。
スーパーの売り場で『今日は野菜たっぷり。あったかシチューはいかが?』と掲げられたPOPと、見慣れたシチューのルゥが大量に積み上げられた売り場の前で、反射的にシチューが食べたくなってしまったのだ。
すると彼は、私の言葉を飲み込むようにゴクリと頷いたあと一切表情を変えずに「今日は肉じゃがって決まっているから。そういうの違うから」とだけ言い捨て、肉じゃがに使う調味料コーナーへと消えていった。
いつもは優しい温厚な性格の彼の中の、冷たい部分に触れてしまった気がした。
私がまだ新卒で保険の営業の仕事をしていた頃、最初は優しく指導してくれた40歳の男上司が、徐々に声色が低い声色で問い詰めるようになり半年後には、契約の取れない日は必ず私を誰もいない会議室に連れてゆき、理論詰めで売り上げを伸ばすように責め立ててきたことが脳裏に過ぎってしまった。
いつまでたっても成績の上がらない私が悪いのだ、と私も男上司と一緒に自分自身を責め立てていた。
あの頃は、毎朝起きるのが辛くて、会社に通うのもやっとだった。
満員電車を見るたびに、路線に飛び込んだら、どんなに楽になるだろうと考えることもしばしばだった。
そんな毎日を繰り返して、半年経った頃。
ついに私は体調を崩して退社し、しばらくは失業保険をもらいながら精神科に通っていた時期があった。
もうそんな思いはしたくない。
彼に出会って、私は変わった。
彼が私の生きがいになった。
私を楽しませようと彼は自宅のデートプランを企画してくれる。
彼の計画を意図的に壊して、機嫌を損ねることはしたくない。
私は私で、彼の提案するデートプランに不満を持ったことはない。
たまに、このデートプランに私の意志のかけらもないのが悲しくなるくらい。でも、それも彼は私の気持ちも汲んでくれるからだと言い聞かせて納得している。
正直、彼と一緒にいるだけで何だって楽しいから、それでいい。
今日のたこ焼きデートももちろん彼の提案だ。
彼の一生懸命考えてくれたデートプランに喜びのリアクションと、感謝の意を表すことは忘れないように心掛けている。
そうすることで、彼は私をもっと楽しませようとしてくれる気がするからだ。
気をつけることは、買い物中に「お好み焼きにしない?」なんてうっかり言ってしまうことくらい。
お菓子売り場で、新商品をチェックしている時に彼が、私の頭に顔を寄せながら「髪、切った?前髪だけ」と囁いてきた。
正解。
前髪を前日に自分で切ってきたばかりだった。
彼は私の見た目の些細な変化によく気付いてくれる。
眉毛の太さを変えたことを気づかれた時は、ちょっと驚いた。
今まで付き合った彼氏でここまで気付いてくれる人には出会ったことがない。
おそらく、出会った頃よりも体重が5キロ増えたことも当然気付いているだろう。
でも、そこをあえて口にしないのが彼なりの優しさなんだと思う。
私の言われて嬉しいことしか口にしない。
気の利いた気遣いができる彼のことを改めて感心する。その反面、口にしないだけで他にも気づいている部分が沢山あるのではないか、と疑ってしまう。
ひょっとしたら、私に直してほしいところや言いたいことが心の中で積もりに積もっているのではないだろうか。
果たして本音を言わないことが、全て相手を思う愛情なのだろうか。
恐らく私たちは世の中のカップル3年生に比べて”分かり合えている関係値”が低いのかもしれない。
そんなことを一人で考えたって時間の無駄なのはわかっている。
これもお互いの放屁を知らないせいだ。
おならをし合える間柄になっていれば、腹の内も見せ合える。
恋人の関係に深みが出せるに違いないだろう。
ここまできたら、放屁に託すしかないとさらに確信した。
以前、私が彼にあげた欧風雑貨店のエコバックの模様違いをそれぞれの片手にぶら下げて手をつないだままスーパーを後にした。
飲み物が入った重みのある袋は彼で、材料が入っている袋は私が持つ。
早速、彼の家にお邪魔し、ヒールから私専用のレースを纏ったスリッパに履き替えた。
たこ焼き器でたこ焼きをひっくり返しながら、不意に音が出てしまうのではないかとヒヤヒヤした。さすがに、食事中の放屁は大人のマナーとして避けたい。
正座体制に足のかかとを肛門に当てておならを我慢しながら、チーズを買って正解だったね、意外とイカもアリだったなんて話したり、美味しそうにたこ焼きを頬張りながら、彼の提案してくれたたこ焼きに強く賛同しているアピールを強調させた満足そうに笑みを浮かべていた彼の表情を見て、私も安心した。
たこ焼きの材料もなくなり、彼のお腹も満たされてきた頃、危うくおならが出そうになった。
そんな時は、腰をちょっとだけくねらせたり腰を浮かしながら放屁を抑制させた。
私のこれまで生きてきた実績によると、これは相当大きなオナラが出ることは確定だった。
たこ焼きパーティーが終わる頃、私たちは、余ったたこ焼きをお皿のラップに包み、後片付けのムードに。まだまだ肛門を緩めるわけにはいかない。
彼は「後片付けは俺に任せて、お先にどうぞ」と、先ほど買い物で購入したおつまみやお菓子を袋から取り出してお皿の上にきれいに並べて置いてくれた。
さらに、珍しく燻製のハムやチーズを綺麗に切って並べたお皿も持ってきてくれた。上司から出張のお土産で頂いたものらしい。
きっと結婚したら、こんな感じで食事の後片付けも率先してやってくれる旦那さんになることは間違いないだろう。
私は彼の家で後片付けをした事は一度もない。
最初の頃は手伝おうと試みてはいたのだが、台所をいじられたくない様子だということがわかってからは、お言葉に甘えて堂々とくつろぐことに徹している。
配信動画で話題になっている韓流映画を見ながら、お酒とおつまみを嗜みつつ映画が良い感じになったタイミングで、ホロ酔い状態でキス…からのベッドで共に過ごすのがいつものお約束。そして動画の続きは、翌朝見たり見なかったり。
きっと今夜もそういう流れになるだろう。
私は燻製のハムをつまみながら、どのタイミングで放屁するのがベストだろう…だなんてこれから見る映画を選ぶふりをしながら考えていた。
実は、お昼に近所のスーパーでサツマイモを購入し1本平らげてきた。待ち合わせ場所に向かう時は、ガムを食べながら炭酸水を飲み、お腹に空気を溜めた。
おならを出す準備のためだ。
たこ焼きを食べている時も、不意に音が出てしまうのではないかとヒヤヒヤした。さすがに、食事中は避けておきたい。
正座体制に足のかかとを肛門に当てておならを我慢していた。
それでも、おならが出そうだった時は、腰をちょっとだけくねらせたり腰を浮かしながら放屁を抑制した。
私の長年の実績によると、これは相当大きなオナラが出ることは確定だった。
さらにたこ焼きが胃の中に含まれた今、私の肛門からいつおならが出てもおかしくない状況。私の体は屁を外に出したくて仕方がないようだ。
お腹も張って、まさにパンパンな状態。
こんな風船みたいに膨らんだ、まるで赤ちゃんみたいなお腹、寝た状態でも見られたくない。
これから放屁する私が何を言うか、というのは承知の上でだけれども。
キッチンで鼻歌まじりで食器を洗っている彼は、これから私が放屁を企んでいるなんて思うはずがないだろう。
多分これが、彼にとって初めての”アクシデント”となることに間違いないだろう。
やっぱり、放屁は動画を見る前にしよう。
なんとなく直感でそう思った。
”女の勘”ってやつだろうか。
ちょうど、洗い物を終えた彼が私の横に座ったその時。
ブゥ、ブブブッ
大きな音が聞こえた。
この音の主は、なんと彼だった。
「あっごめん。我慢できなくてつい…」
「ごめん。わたしも」
ブゥ、ブブブッ
今日、私は彼氏の前で初めて放屁を晒した。
お父さん以外の男性の前で、自分のおならを聞かせることは初めてだった。
おならをした後の一瞬の沈黙の間、私の脳内には一瞬隣人のことがよぎった。
お互いのおならを披露した後、私たちは放屁についてなにも言及することなく、韓流映画を観て逢瀬を遂げた。
いつも通りの流れだけど、いつもよりも強く繋がったような気がして嬉しかった。
勇気を出して放屁して良かった。
翌朝、朝食を食べたあと彼は、私に話があると食卓に私を座らせた。
お茶を2つ置いてくれている気遣いも彼らしい。
「あのさ、実は一ヶ月前から話さなきゃって思っていたんだけど…」
この感じ…きっと良いことじゃないんだろうな。
空気が淀んでいくことを感じる。
「ぶぅちゃん、俺、実はさ…」
ぶぅちゃん…そういえば昨夜、彼から「ぶうちゃんって呼んでもいい?」と聞かれたことを思い出した。
私は「なんで?」と聞いたら
「さっきのおなら、かわいかったから」とのことだった。
私はぶぅちゃんってペットみたいだな…なんて思いながら、あっさり承諾した。
でも、こんな真剣な面持ちで私を”ぶぅちゃん”と呼んでいる彼はなんだか滑稽に思えてきた。
「転勤するんだ。福岡に」
え?
「あと、来月結婚することになった」
彼は、言葉を間違えないように、ゆっくり慎重に丁寧に精一杯伝えようとしているせいか唇が震えているように見えた。
私は頭の中が真っ白になった。
今耳から聞こえてくる言葉は、私に向けて発した言葉なのだろうか。
目の前にいる男性の姿は、私が彼氏だと思ってお付き合いしていた人物なのだろうか、頭の整理がつかない。
何も考えたくない。
一人になりたい。
こんな話をするなら、せめてぶぅちゃんなんて呼ばないでほしい。
私の名前は”美奈”だ。
「ちょっと何言っているのかわからない」
私の咄嗟に溢れた言葉がこれだった。
日本語の意味はわかるけど、全く理解できない。理解したくもない。
あのお笑い芸人のセリフも、こんな状況から生まれたのだろうか。
身体が必死に反射的に彼の発した言葉を受け止めることを拒んでいた。
それでも彼は言葉を発することをやめようとしてくれない。
「昨日の燻製のハムとチーズ覚えている?出張先の上司からもらったって言ったやつ。その上司と実は、5年前に付き合っててね、ぶぅちゃんと付き合う前に別れたんだけど、出張した日のご飯会で『結婚しよう』って話し合ったんだ。俺も転勤でそっちに行くし、タイミング的にちょうど良いかなって思って」
彼は何度もごめん…ごめん…と頭を下げて顔を上げようとしなかった。
それが私への誠意だと思っているのだろうか。
それにこんな真剣な話をしているのに、
本当は殴りたい気持ちでいっぱいだったけど、そんな気力もとっくに失っていた。
椅子に座っていなかったら、とうに腰から崩れていただろう。
今の私に、自分の身体を支えることは不可能だった。
先週の平日に福岡出張に行くことは知っていたが、
まさか元サヤに会っていることは知らなかった。
元サヤの話を聞いたことも初めてだ。
しかも上司だから年上か。
とっくの前から私に備わっているはずの”女の勘”ってやつは鈍っていたようだ。
おならをしようがしまいが、私たちは結局本当の意味でのカップルにはなれなかったのだ。
つまり放屁損ってやつだ。
彼と結婚できなかったら、別れて別の男性と結構を意識したお付き合いをしたいなんて考えていたけれど、今の私には彼への恋愛感情を心の中で消すことは難しい。
むしろ付き合っていた頃よりも、皮肉なことに彼への愛は強くなっていることを痛感した。
「別れたくない」毎日のように、心の中で1日に何度も絶叫していた。
翌日から彼との連絡は途絶えた。
あれから10ヶ月後。
彼から東京に出張があるから会いたい、と連絡が来た。
久々に会った彼の左手の薬指には、当然のように指輪がはめられていた。
それがなんだかとても自然に指に馴染んでいたのが気持ち悪い。
一度デートで行ったことのある日本酒にこだわっている居酒屋で食事を済ませ、彼の泊まるホテルで2回逢瀬を重ねた。
彼は何度も私のことを「ぶうちゃん」と熱っぽい声で私の耳元に囁く。
耳がなんだかこそばゆい。
翌朝5時頃、目が覚めた。
土曜日の休日にしては、かなり早めの朝だった。
彼はまだ寝息を立てて横で寝ていた。
左手の薬指にはめた指輪がキラッと光っている。
「私も先に進まなくちゃ」
私は、簡単な身支度を済ませて部屋を後にした。
自宅に着いた途端、「ブブブブッー」
ベッドになだれ込んだ瞬間、大きなおならをぶっ放した。
一人の部屋でするおならはやっぱり気持ちがいい。
これから彼氏ができても、決してその彼の前でおならをしようとは思わない。
そもそも、おならは誰もいない時にするのがマナーだと今更になって気づく。
「ぶぅちゃん…かぁ…」
彼は、その呼び方を気に入っていたようだが、私は彼が私を恋人として見てくれることはないような気がして悲しくなった。
ベッドで、横たわりながらボーッと天井を眺めていたらお腹が鳴った。
そうだ、コンビニへ行こう。
今日は何もしたくないから、3食分買い込もう。
部屋着のままドアを開けた瞬間、隣からドアが開いた。
隣人は私に「おはようございます」と言ったので、私も笑顔で同じ言葉で返した。
互いに会釈を交わしたあと、隣人は小走りで2階の階段を降りていった。
隣人を見た瞬間、壁から響き渡るおならの音を思い出した。
向こうもきっと、さっきの私のおならを思い出しただろう。
隣人とこうしてちゃんと挨拶を交わしたのは初めてだった。
今のマンションに住んで今年で4年目。
私が住み始めたときから、今の隣人はすでに住んでいた気がする。
同じマンションに住んでいても、ほとんど顔を合わせることはない。
白髪まじりでお腹の膨らみが目立つどこにでもいそうな中年男性だった。
スーツ姿だったので、これから仕事へ行くのだろう。
きっと独身か、単身赴任といったところだろうか。
あの人のおならがなければ、彼は私の部屋に来ることもあったのだろうか。
おかげでこの部屋は、彼を知らない。
今はそれだけでも心が救われたような気がする。
彼が選ばなさそうなアンニュイな恋愛映画を3本観終わる頃、ガサガサっと音がした。
隣人が仕事から帰ってきたようだ。
「そろそろ20時か…」
いつのまに日が暮れていたのだろう。
朝からカーテンも閉めきったままで気付かなかった。
放置していたスマホが目に入った。
「メッセージを受信しました」と表示されている。
彼からだった。
「ぶぅちゃん、おめでとう。本当に大好きだったよ。そして、ごめん。今までありがとう」
今日、私は30歳になった。
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