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「元気だよ。そっちはひょっとして元気じゃないの?」
「……そうなのよ。ちょっと困ったことになってね……」
やはり。私は、母に聞こえないように小さく溜息をつき、恐る恐る尋ねる。
「どうしたの?」
「けがをしちゃってね。生まれて初めて救急車に乗ったわよ。足をねんざしてしまって、なんだか骨にもヒビが入ったらしくて、しばらく歩けないの。買い物とかどうしようかしらね……」
休業に踏み切る潮時だ。オーナーを説得する格好の材料が転がり込んだ。
「……足が治るまで、帰るよ。ちょうど店を休もうと思っていたから」
「すまないね。本当に助かるわ。あんた、車は持っているの?」
「持っているわけないでしょ。都会暮らしには必要ないよ」
「どうやって買い物に行くの? 病院にタクシーで行くとお金がかかるのよ…… あんた、お金あるの?」
「ありません。お客が減っているの。バスを使うわ」
「二時間に一本よ……」
「タクシーがだめなら、仕方ないよね」
しばしの沈黙。お互い相手の出方を探る。しびれを切らせた母が仕掛けてきた。
「ねえ、免許取りなさいよ。お父さんの軽、まだあるから。合宿免許っていうの、2週間で取れるみたいよ。近所に教習所があってね、宣伝していたの。通える距離だと思うんだけどなあ……」
免許? 私を召し使いにするつもりなの。イラッとして思わず声音が険しくなる。
「軽って、お父さんが死んでから動かしてないんでしょ? 危ないよ、そんな車」
「だって、私、歩けないのよ。病院、どうするのよ」
即答できなかった。電話ではらちが明きそうにない。
「……明日、帰るから。その件は、また話し合おうよ。いまから戸締まりするから。じゃあね」
洗い物がないので戸締まりはあっさり終わった。私は店のドアに鍵をかけると、ネオン街の外れでタクシーを止める。まだ終電前だというのに、人影はまばらだ。ようやく社用族が戻ってきたのに、わずか二カ月でまたゴーストタウンに逆戻りしてしまった。
荷造りは一苦労だった。実家にある私物はすべて処分してしまったので、あれもこれもと必要な荷物が増えていく。実家は、山奥の一軒家だ。私は仕方なく、一番大きなスーツケースをクローゼットの奥から引っ張り出す。ルビーさんと沖縄旅行をしたときに買ったものだった。使ったのは一度きり。私は、思い出が詰まったスーツケースを捨てられず、クローゼットの肥やしにしていた。やっと心の整理がつきかけていたのに、当時を思い出してしまった……。休業の口実をくれた母を今度は軽く恨む。
父の通夜に参列した人は誰ひとり私に声を掛けなかった。きっと誰だか分からなかったのだと思う。それはそうだ。だって、私は生まれ変わったのだから。私は、髪をとかしながらドレッサーの鏡をのぞき込む。
「きれいになって、そのあとはどうするの?」
私は、鏡に映ったルビーさんにつぶやく。ルビーさんは私の姉であり、恋人であり、全てだった。一時期、私の全てを掌握していた人だ。彼女が何度も投げかけた質問の答えを、私は今も探している。
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