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あの日以来、福子から連絡はない。私も、連絡しなかった。何を言っても福子を傷つけてしまうと思ったからだ。
私は、卒業式の翌日、家を出た。身の回りの必要最低限の物をスポーツバッグに詰め込んだ。母が玄関で見送ってくれた。父は姿を見せなかった。私が、本当の私を探し続けて思い悩み、十八年間を過ごした田舎町。私は、駅のプラットフォームで新緑が目立ち始めた山をぼんやりと眺めたが、何の感慨も湧かなかった。
私は、大久保駅の近くに安アパートを借りた。外国人が多く住む雑多な街だ。韓流ブームで最近はとりわけ韓国の飲食店や雑貨店がひしめく。私が、この街を選んだのは、学校から徒歩圏内だったからだ。憧れのダンサー、ルビーさんがいるショーパブにも歩いて通えた。
私は入学手続きを済ませると、さっそく「ピンクパンサー」のドアを叩いた。だが、オーナーと名乗る男は見るからにその筋の人で、私を何度も門前払いした。
「しつこいな、他を当たりなって言っているだろ。成人してから出直しな」
「お願いです、どんな仕事でもしますから……」
オーナーは薄い黄色が入ったサングラスの下から三白眼で私を見下ろし、にやりと笑ってドアを閉めた。私の話を最後まで聞いてくれたことはない。こんなやり取りが十回は続いただろうか。ある日の夕方、私が性懲りもなく店のドアをノックすると、意外な人物が対応に出てきた。憧れのルビーさんだった。私服姿で薄化粧だったが、見間違えるはずはない。ルビーさんが手の甲で長い髪をかき分ける仕草が艶やかで、私の心臓は胸を突き破らんばかりに激しく鼓動し、手足ががくがくと震えたのを覚えている。
「あなたが、噂のアルバイト希望?」
「も、桃谷です。る、ルビーさんの、だ、だ、だ、大ファンで、ルビーさんのようになりたくて、どうしてもお店で働きたいの……何でもします。使ってください! お願い……」最後は声にならなかった。
ルビーさんは私をしばらくじっと見ていた。そして私の手から履歴書をひょいと奪い取ると、「ちょっと待っていてね」と言い残して店の中に消えた。私は、言われたとおり、身動きひとつせずにドアの前で待っていた。それは、ほんの数分間だったと思う。でも、気が遠くなるくらい長く感じた。
バタンとドアが乱暴に開く。オーナーが「入りな」と私を招き入れ、忌々しそうな顔で言った。「ルビーの身の回りの世話と、炊事場の手伝いだ。学校が終わってから閉店までな。休みはルビーに合わせな」
「は、はい! ありがとうございます!」
「よかったわね。よろしく」ルビーさんがにこにこしながら差し出した手を握る。ルビーさんの手はひんやりとしていて、表面には吸い付くような潤いがあった。
ネットでルビーさんの動画を初めて見たときの衝撃は今でも忘れない。スポットライトを浴びながら踊るルビーさんは、美しいなんて単純なことばで言い表せなかった。全身から得体の知れないオーラを放ち、神々しくさえあった。人気アイドルがかすんでしまうほどだ。
私の人生の目標は、その瞬間に決まったと言ってもいい。ルビーさんのようになりたい……。ほかのことは全て無価値なことに思えた。そのルビーさんが今、目の前にいて私の手を握っている。天にも昇る気持ちとはこういうことかと思った。
「ルビーは物好きだな。なんでこんな田舎くさいのを……」「まあ、いいじゃない。私に任せてよ」オーナーとルビーさんは小声で何やら話していたが、内容はよく覚えていない。私はただ有頂天だった。頭も体もふわふわしていた。
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