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「ただいま」
と、あなたは返ってくる。
「おかえりなさい、あなた」
と、ありきたりな返事。
幾日も、幾千日も、繰り返す、無彩色な日常。
もう、こんなに繰り返しているのだから、言わなくてもわかる。
ときどき、ヴァリエイションを変えてやろうかとも思う。
今日は、玄関から飛びついちゃおうか。とか。
少しスネたフリしようか。とか。
「ぼくは、白いごはんが、一番好きなんだ」
と、あなたが言ったから。
わたしはいつでも、同じ答えを繰り返す。
「おかえりなさい、あなた」
今日も何はなくても、食卓にはいつもと同じものが並ぶ。
「ぼくは、お月さまが好きなんだ」
と、あなたが言ったから。
今日もいつものように、月明かりで照らす。
わたしは、あなたを太陽の光で包んであげることはできないけど。
女ですもの。満ちたり欠けたり、見せる顔は変わるけど。
見えないときも、ちゃんとそこにいます。
だから今日も、
「おかえりなさい、あなた。お風呂にしますか、それとも、ごはんにしますか。あなたの好きな、白いごはんが炊けています」
いつでも、いつでも、炊けています。
でも、先に汗をお流しになりたいのでしたら、そうなさいませ。
わたしは、待っていますから。
いつまでも、いつまでも、待っていますから。
見えないときも、ソッポを向いてるように見えるときにも、そこにいますから。
「今日は先に風呂にしようかな」
と、あなたはなんだか、肩から重い荷物を降ろしたよう。
「とても暑くてね」
ええ、わかっていますとも。
あなたは、とても熱いところで、お仕事してらっしゃったのですものね。
汗をおかきになったのでしょう。
先にお風呂にお入りになって、体についた、泥や海の潮をお流しなさいませ。
あなたが恥ずかしくないのであれば、わたしがお背中流しましょう。
「いいお湯だった」
生まれたての赤子のような、上気した顔。
さっきまでわたしのように、疲れたお顔でしたのに、見違えるようです。
わたしも一風呂浴びれば、美しくなるのでしょうか。
女は、駄目ですね。
殿方の視線を気にしなくなったら、すぐに老けこんでしまいますわ。
ちょっと、先に湯浴みをしてきます。
勘違いしないでくださいな。
せっかく、あなたが帰ってきてくれたんですもの。
大丈夫。ごはんは冷めたりしませんよ。
あせらない、あせらない。
もう、どこにもいきませんから。
「おいしいね、おまえの作るごはんは」
よく噛んで食べてくださいね。
おかわりなら、いくらでもあります。
もう、誰にも遠慮することはないのですよ。
ねえ、あなた、覚えていますか。
二人がまだ、小さい頃。よく、おままごとをして遊んだでしょう。
あなたは大人たちの真似をして、「こんな不味い飯が食えるか」なんて、ちゃぶ台をひっくり返す真似をして。
小さな手で、わたしの頬をぶったりして。
痛かったんですから。そんなところまで、大人たちの真似をすることもないのに。
わたしがわんわん泣いていたのを聞いて、近所の大人がやって来て、あなたにゲンコをして、そしたら、今度はあなたがわんわん泣いちゃって。
それを見たら、わたしの涙は引っ込んじゃったの。
「ごめん。子供だったんだ」
あなたは謝ってくれる。
ねえ、もう二度と、女がぶたれる世界はやってこないかしら。
「約束するよ」
ねえ、約束よ。きっと、約束よ。
こんなにみじめな気持ちは、もう、たくさん。
原始、女性は太陽だった、なんて、言う人もいるけど、わたしは違うと思うの。
だって、太陽の火は、焼き尽くすでしょう。
熱かったでしょう、あなた。
わたしも、熱いわ。
女は、やっぱり、月だわ。
ねえ、月明かりが、綺麗。
どうしてかしら。どうして、月が見えるのかしら。
あなたの行ったラバウルでは、日本軍は大勝したのでしょう。
どうして、あなたは帰ってこないのかしら。
どうして、家から月が見えるのかしら。
もう、あなたの顔が見えない。
目の中に血が入ったみたい。
もう一度、あなたとおままごとしたかった。
もしあなたが、わたしを覚えてくれているのでしたら、遠い南の島で、空を見上げてください。
わたしは、見えないときも、そこにいます。
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