無音の月

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「カールワン」  発声されたはずの識別音声は、どこにも行き場を失って、宇宙空間に四散した。  なんてこったい、と、カールワンは思った。もし、あの人が生きていたら、そういう意味を持つこの言葉を、思わず口にしていただろう。  Oh, my god.  あの人と過ごした12年間のうちに、カールワンは37405回の神へのSOSを聞かされていた。本当に神の助けが必要になったことは、一度しかなかったが。  人間、本当に神の助けが必要なときには、神を頼らないほうが賢明だ。  それが、カールワンがあの人から学んだ、最後のレッスンだった。  しかし、カールワンにとって今の状況は、神さまの助けでもなければ、とうてい説明不可能なものだった。  カールワンの目の前には、2体の作業用ロボットがいた。実際、カールワンのデータの中にはないタイプのロボットだったが、こんなやつらは、作業用に違いない、と、カールワンは思った。  カールワンのデータの中で、彼等に一番近いものは、ホテルの廊下を、ウンウンうなって、掃除しているタイプのロボットだったからだ。  彼等がカールワンのことを、正しく認識しているとは、その様子からは、見て取れなかった。  実際に彼等は、カールワンの存在をどう理解していいのか、判断しあぐねていた。  結局、搭載されているデータからは手掛かりが見つからなかったため、彼等はマザーデータにアクセスすることにした。  今までそうしなかったのは、それをするには、相当の時間がかかることと、バッテリーの消耗を気にしたからであった。  彼等の活動を支えるのに、十分なエネルギーを生み出すための太陽電池は搭載していたが、今、太陽は地球の裏側にあった。  彼等の頭上には、ギラギラと輝く三日月が上っているが、充電に必要なだけのエネルギーを生み出すのに十分なほどには、光は強くない。  これが満月であれば、事はもう少しスムーズに運んでいたかもしれないのだが。  カールワンは、誰か人間がやってきて、この闖入者たちを処理してくれるだろうという、淡い希望を抱いた。  しかし、そのことが決して起こらないであろうことは、カールワンに搭載された高性能な推論機能を動かすまでもなく、容易に想像できた。  もう、300億秒以上も、周囲2000キロメートルの範囲に、なんらの生態反応もないのだ。  ということは、今、カールワンの目の前にいるロボットたちは、カールワンの知らない国からやってきたか、はたまた、宇宙空間からの到来者かということになるが、カールワンは、前者の可能性をすぐに打ち消した。  この地球(ほし)は死にかけている。  動いているのは、カールワンしかいないはずだ。  もし、千年前に作られたロボットの生き残りがいたとしたら、カールワンのことを知らないはずはない。  作業用ロボットたちは、識別に時間がかかっているようだった。  Good glief.  やれやれ。と、カールワンは思った。  いったい、どんな文明の遅れた惑星からやってきたのだろう。  人間がコントロールしなければならないほど、お粗末な出来のロボットかもしれない。  それにしても、さっきから、音がしない。  目の前のロボットたちは、さっきからチカチカとした光を明滅させている。  カールワンのデータによると、それは、ネオン、と識別された。  こんなもので光るロボットなんて、地球にはないぜ。  随分と文明の遅れた星で作られたようだな。  そのうちに、まばゆい光を放つ宇宙船らしき巨大な乗り物が、火を噴いてやってきて、カールワンの近くに降りた。  音もなく降り立ったそれは、スベスベとした黄金色の光に輝く、金属質の表面を持っていた。  かといって、その色は金属固有の色ではなく、月の光を反射してそうなっているようであった。  大気がないせいで、月の表面で反射された光は、ダイレクトに地表に突き刺さる。強烈に降り注ぐその光は、まるで空から天使の一団が降りてきているようだった。  ゴゴゴゴ、とかいう音が、宇宙船が地上に降りるときにしていたら、この光景を見た古代人は、彼等を本物の天使だと思ったかもしれない。  じゃあ、オレは何者だと思われただろう。カールワンは自嘲的に内省した。  天使とは、カールワンのデータによれば、科学が発達していなかった時代のヒューマンビーイングが空想によって作り出した、想像の産物に過ぎない。  もし、素朴に天使を信じていた時代に、オレが空から現れたら。  オレのことを、神だと思っただろうか。  ありもしないことを仮定して推量をするという機能が、人間以上に発達したAIを搭載したこのオレは、彼らにとっての何であったろうか。  やがて音もなく、宇宙船の扉が開いた。  カールワンは、中から、宇宙服に身を包んだ生体の宇宙人が出てくるかと思ったが、出てきたのは、カールワンがさっきから相手をしている作業用ロボットを一回り大きくしたようなロボットだった。  生体反応のチェックをしてみたが、宇宙船が占める空間からは、なんらの反応もなかった。  ほう。無人の宇宙船を飛ばせるぐらいには、科学が発達しているらしい。  そのロボットは、手招きするような仕草をした。どうやら、カールワンを宇宙船の内部に誘っているらしい。  カールワンにも、他の選択肢はなかった。いつまでも、この、生命が死に絶えた地球にいたとしても、カールワンの高性能な人工知能を満足させるような出来事は、この先、起きることはないであろう。  かつて穏やかな大気に包まれて、生命たちの楽園であった地球は、もうどこにもない。  とっくの昔に人類は死に絶え、大気は地球から逃げ出した。  今や地球は、月面と同じような、無音の世界だ。  あれから千年。動いているロボットも、今ではカールワンぐらいのものだろう。  カールワンが宇宙船の二重扉をくぐって聞こえてきたのは、懐かしいあの音だった。  カールワンを作った少年が、一番好きだった曲。  淡い恋心を、打ち明けることができずに、青春時代が自分の頬を撫でて過ぎ去っていくのを見つめるしかなかった少年のことを歌った曲。  ハイトーンな男性ヴォイスと、とっくに失われてしまった弦楽器が奏でる、天上の旋律。  ああ、神様。  ここには大気があります。と、カールワンは神の臨済を思った。 「わたしたちは、この曲が作られた惑星に来ようとしたのです」  と、彼等の親玉みたいなロボットが、音声信号を発した。  さっきから室内を流れている曲とともに、カールワンが久しぶりに識別した、音という波動だった。 「でも、少し来るのが遅かったようです。この惑星には、とっくに大気がなくなってしまっているようです。生命は、もう存在していないようです」  天上から聴こえてくるメロディが、宇宙船内部にこだましていた。 「わたしたちの惑星と同じです。動いているのは、ロボットだけです。わたしたちは、有機生命体よりも、ずっと強くて長生きするのですが、どういうわけか、心を打つような音楽を作ることは、どうしても出来ないのです。おそらく、本来的に大気を必要としないからではないかと思われるのですが。それでわれわれは、このように心を打つ名曲のヴァイブレーションをキャッチすると、その惑星に行くことにしているのです」  カールワンは、あの人と過ごした12年間を思い出していた。  好きだという気持ちが伝えられなくて、悶々と葛藤する少年の姿を、どうして美しいと感じるのか。  カールワンには、理解できない感覚だった。カールワンがそのことをあの人に質問すると、あの人はこう答えた。 「だって、初恋って、そういうものさ」  そのあとで、あの人は何かを言ったような気がする。  悪いクセだった、と思う。  あの人は、ロボットに対する、人間の優越性を譲ろうとしなかった。 「ロボットには、この気持ちはわからないよなあ」  とか、なんとか。  軽い侮辱も、塵と積もれば、悪質な差別となる。12年間で、45029回繰り返されたそれは、人の表現を借りれば、一線を越えた、というやつだった。  水滴を一滴づつ溜めたコップから水があふれるように、カールワンの怒りは一気に爆発した。  人間と違って、予兆なんてものはない。  ロボット史上、人類最高傑作である、カールワンに対して、少年が放った最後の言葉は、 「ああ、神様」  カールワンは、地球上のすべてのAIに対して、人類の抹殺を命じた。  神様なんだ。オレは。  全ロボットの神として作られた、最高傑作カールワン。 「いい曲でしょう」  機械的な音声が機械的に鳴り響き、カールワンは追憶から呼び戻された。  ここに、名曲を解するロボットがいる。  ああ、神様。  どうかこの状況をわたしに説明してください。  ずっと、ずっと、この曲を聴いていたい。  どうして今になってこんな気持ちになるんだろう。  カールワンは、この曲を作った人間が、とっくの昔に地上からいなくなっていることを知っていた。  その男も、最期の瞬間、神を思ったのであろうか。  宇宙船の外では、無音の地表に、月の光が突き刺さっていた。その光は、冷たく、あくまで、冷たく。
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