途は続く

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途は続く

 遠く響く戯歌に、はっと顔を上げる。  暗い窓の向こうに見える、『丘』と呼ぶには峻険な山々の間に開いた唯一つの深い切れ目に、ユリアは僅かに息を吐いた。あの『都』にはもう、誰もいない。なのに、都で作られた、都を守る人々を讃える歌は、まだ、ある。そのことが、ユリアには不思議でならなかった。……いや、あの歌以外にも、残っているものは、ある。  蝋燭だけの光の下、音を立てることなく、書き物机の上の手箱を手にする。蓋を開けると、無造作に巻かれた羊皮紙の束が、色褪せた光を放っていた。  丘の向こうに広がる、今は不毛の地と化した平原の入り口となっていた『始まりの都』の守備部隊『夜を守る者』。その隊を統べる、まだ若き長が、ユリアの婚約者。そう、母がユリアに告げたのは、いつのことだっただろうか。ユリアの母の姉の息子、ユリアには従兄にあたる、カイという名のその青年は、平原から全ての人が立ち去るその前夜に、『夜を守る者』としての責務を果たし、この世を去った。『夜を守る者』の最後の一人、ブランという名のまだ少年といってよいほどの青年が母と自分の前でそれを告げたとき、母は泣いたが、ユリアは、……泣けなかった。「冷たい」と、母はユリアを詰ったが、顔も知らない形だけの婚約者のことで泣けと言われても。それが、ユリアの正直な気持ち。  おそらく、相手であるカイの了承をも、母はきちんと取っていなかったに違いない。小箱の一番下にあった、戸惑いの滲む短文が書かれた羊皮紙を取り出し、苦笑する。形だけの婚約者であったはずのユリアに、カイは細々とではあるが、手紙を、くれた。内容は、帝の命を受けて平原から去る人々の手助けをしていたユリアの家に届いていた『夜を守る者』としての報告書と、殆ど同じ。しかしカイは、時折、世界のことが書かれた本を求め、求めに応じてユリアが贈った本のお礼にと、今となっては平原の遺物でしかない細々としたものを手紙に添えてくれた。小さいときに家出した先で拾ったという、魚の鱗を大きくしたものにしか見えない半透明の板、『始まりの都』の大きさを尋ねた後の手紙に託されていた、都の城壁の欠片だという蒼黒い石、そして。羊皮紙の間に迷い込んでいた、平らで丸いものを、ユリアはそっと手に取った。  その時。  階下で響いた、僅かな物音に、びくっとその身を震わせる。泥棒、だろうか? 貴族の家だが母と自分だけの女所帯だと見くびって、金目のものを盗みに入ったのだろうか。とにかく、確かめねば。使い慣れた短剣を懐に忍ばせると、ユリアは音も無く階下へ、明かりの点いている台所へと滑り込み、戸棚を漁っている影の首筋に短剣を突きつけた。 「……!」  声にならない声を上げて、影が振り向く。 「ブラン!」  カイの最期を告げに来た少年の姿を認め、ユリアはすぐに短剣を下ろした。 「何してるのっ!」  そして責める声を上げる。 「あなた、まさか……!」  蝋燭の光に揺れる台所の床に転がっているのは、先程ブランが腕から取り落とした大ぶりの堅パン。それだけで、ブランが何を考えて台所に侵入したか、ユリアにはすぐに察しがついた。だから。 「戻っても、誰も居ないわ」  うなだれたブランに、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。 「『夜を守る者』が守るべきものも、……カイも」 「分かってる」  それでも、戻りたい。……戻らなければ。咽ぶようなブランの言葉に、ユリアは僅かに頷いた。ブランの、この少年の気持ちは、分かるつもりだ。それでも。 「皆を無事に、脱出させる。それが、私の使命」  カイが手紙に書いた、小さな言葉を、静かに思い出す。その手紙とともに送られてきた、懐に入ったままであった丸い金属片を、ユリアはブランの掌に乗せた。 「……これは?」 「硬貨」  首を傾げるブランに、短く答える。元々は、平原で流通させるために『始まりの都』にて鋳造されたもの。しかし、硬貨の流通は殆ど進まず、白い土と闇色をした魔物のために人々が平原を去る頃になっても、平原では物々交換が主流だった。しかしそれでも、かつての平原に張り巡らされていた街道の両脇に目印として植えられていた、凶客が身を隠すには細過ぎる幹と疎らな枝葉を持つ常緑樹が刻印された銀製の硬貨だけは、旅のお守りとして人気があったという。 「カイが、くれたものだけど、……あげるわ」  それだけ言って、ブランに背を向ける。  咽び泣くブランの声は、台所の戸を閉めると、聞こえなくなった。  翌朝。  ユリアの予測通り、ブランは、この家から姿を消していた。  どこへ行ったのかは、分からない。だが、平原には、『始まりの都』へは、戻っていない、はずだ。部屋から見える、丘の切れ目を見つめ、ユリアはカイの代わりに一人、ブランの無事を、祈った。
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