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行くしかなかった。
ルーガたち家族は故郷を出発した。
太陽の落ちる方へ。西へ、西へと向かった。
住み慣れた土地を離れることには抵抗があったが、土地の生産能力はすでに限界だった。
1万2000年前の話である。
農耕技術や化学肥料が発達した現代と違って、土地が痩せてしまったら、新たな土地を探して移動するしかない。
いい土地だった。2本の大河に挟まれた、黒い土の肥沃な大地は、一旦、種を蒔いたら、あとはそのままにしておく以外にやるべきことを知らない未熟な農耕者達にも、豊かな実りをもたらしてくれた。回りには人を襲うような危険な野生動物はおらず、狩りやすい野ウサギや、家畜化しやすい小型のヤギが多くいた。気候は穏やかで、自然災害とも無縁だった。ルーガ達家族は、その祖父の祖父の代から、ずっとこの土地で暮らしてきた。
だが、作物を作れば、どうしたって土地は痩せていく。年々、収穫量は落ちていき、今年、とうとう、蒔いた種の量よりも収穫量が下回ってしまった。こうなれば、もはや土地を捨てるしかない。
ルーガは不安でいっぱいだった。生まれてこのかた、他の土地を見たことがなかったのだ。彼は4人の妻と12人の子供、そして50頭のヤギを連れ、故郷を経った。
旅は困難を極めた。出発して2日目には、オオカミの群れに家畜が襲われ、ヤギの数が半分以下になってしまった。いい土地を見つけたと思っても、そこにはすでに他の家族が住んでいた。慣れない旅路に抵抗力が弱ったのか、年端のいかない子供達が病気にかかって次々に死んでいった。ルーガ達家族が落ち着けるような土地はなかなか見つからなかった。以前住んでいた土地が良すぎたためである。良さそうな土地にしばらく腰を下ろしたりしたが、長くは続かなかった。どうしても、故郷と比べると、見劣りがした。
それでも彼は諦めなかった。いつか理想の土地に巡り会えると信じて、絶え間のない歩みを進めていった。西へ、西へ。ひたすらに太陽を追いかけた。ときには筏を組み、激流に悩まされながらも、荒れ狂う大河を越えた。ときには不毛の荒野を、コヨーテの遠吠えに怯えながら、幾日もさまよった。またあるときには、死の天使が降る一面の銀世界を、粛々と行進した。
そうして何年もの年月が過ぎた。途中、様々な部族達とすれ違った。「どうして旅をしているのだ」と、いつもルーガは聞かれた。その度に、自分達の先祖の土地がどれほど素晴らしいところだったかを、熱に浮かされたように語って聞かせた。
あるものはルーガ達と同行することを申し出た。土地の女で、ルーガの新しい妻となるものもいた。だが、ルーガの子供達の中には、土地に留まり、土着民に混じるものもあった。
さらに何年もの月日が過ぎた。未だ理想の土地を見つけられぬまま、とうとう、ルーガの寿命が尽きるときがきた。死の直前、ルーガは家族の者達に告げた。「必ず約束の土地を見つけよ」と。
ルーガ亡きあと、家族の者達はしばらく喪に服し、その場を離れずにいた。だが、やがて彼等は動き出した。西へ、西へ。再び彼等は旅へと突き動かされた。ルーガから、先祖の土地の素晴らしさをいつも聞かされていたからである。彼等の頭の中には、想像力によって幾重にも飾り立てられた理想の楽園が存在していたのだ。ルーガの子供達がそこで暮らしていた頃には、もう既に土地は痩せ衰えていたのだが、長い年月によって記憶は薄められ、美化されていた。その空想の楽園に比べると、旅の途中で彼等が出会った土地は、全て物足りなく思えた。
さらに長い年月が過ぎた。彼等はさらに西へ移動した。旅を続けながら、彼等は生活した。家畜を養い、土地から土地へと移動し、土着の民族と融合した。ルーガの子供達は皆、すでになく、孫の代となっていた。だが、彼等の体の中には、祖父から伝わった約束の土地の伝説が、息づいていた。彼等は大切に話を伝え、育んでいった。
さらに何代かの時が流れた。さらに西へと進んだ。もはや誰も生前のルーガの姿を知っている者はいなかった。それどころか、ルーガの孫の代のことも、最早誰も知ってはいなかった。それでも、約束の土地の伝説だけは、彼等の間で語り継がれていた。家族は一族となり、一族は部族となっていた。
そして、ある暖かな春の日の午後に、彼等はとうとう見つけた。西の最果て、2本の大河に挟まれた、黒い土の肥沃な大地を。
そこには色とりどりの花が咲き乱れ、穏やかな風が吹いていた。河は雄大に流れ、魚が群れを作っていた。小動物が巣穴を掘り、大型の野生動物は岩山に阻まれていた。先祖からの言い伝えの土地にそっくりだった。
彼等はここが先祖から伝わる約束の土地であるとした。農耕を開始し、街を作った。
さて、読者はもう既にお分かりのことと思うが、この時代、まだ地球が球体であることは知られていない。土地の持つ力というのは、時が経てば回復するものである。どうやって海を渡ったのかという質問は、無粋というものである。
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