600度の贈り物

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寛基(ひろき)、おばあちゃんを呼んできて!」  奥の座敷から、居間に声をかける。返事がない。背を反らして首を伸ばし、開け放ったきりの襖の向こうを顧みる。 「寛基?」  問いかけた自分の声が、静寂に溶ける。しっとりと黄ばんだ漆喰の壁、介護ベッドの置き跡の形に凹んだ畳、飴色に沈着した台所の床板。家具家電が運び出された室内は、こんなに広かっただろうか。 「ちょっと、寛基! いないの?」  よっこらしょ。日焼けした畳に手を付いて腰を上げる。指先にチクリ、毛羽の感触が残る。 「寛基!」  居間から廊下に一歩踏み出して、階上に向かって声を張る。やはり返る気配はない。全く、どこに行ったものやら。ついさっきまでスマホ片手に、家のあちこちを彷徨いていたのに。 「仕様がないわねぇ」  ポツンと置かれたちゃぶ台の上からスマホを手に取り、グループラインで息子にメッセージを送る。 『あんたどこにいるの? そろそろ時間だから、おばあちゃんを呼びに行って』  ついでにメールボックスを開く。新着メールの中に、不動産屋の担当者からの連絡があった。 『末永(すえなが)様。お世話になっております。これから店を出ますので、お約束の2時には到いたします。本日は、どうぞよろしくお願いいたします。保坂(ほさか)』  必要事項だけを簡潔に綴った文面。雛型を弄った定型文だろうけど、小まめなやり取りにホッとする。まだ30代半ばの担当者は、高校生みたいな童顔で頼りなく見えたが、対応は丁寧で誠実だ。売り主(こちら)の要望を根気強く聞いて、納得のいく条件で売却出来たと思う。  ピコン  メールを閉じる前に、ラインのプッシュ通知が届く。 『りょ』  一転、バカ息子が返した二文字に溜め息が漏れる。最近の若者言葉は「了解」すら略さないと気が済まないらしい。
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