600度の贈り物

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「あらやだ」  スマホを置きかけて、ちゃぶ台に点々と残る水滴に気づく。お昼前にみんなで食べた蕎麦の汁が飛んだに違いない。 「理美(さとみ)も、いい加減なんだから」  せこせこと動いてしまう私とは対照的に、3歳下の妹はおおらかな性格だ。 「片付けた時に、拭いてよねぇ」  箱ティッシュは、もうダンボールに収めてしまった。確かハンドバッグの中に、ウェットティッシュがあった筈。縁側に並べた荷物から目当てのものを取り出すと、不意に足元の影が深くなった。鳥曇りの空を割って、陽光が差し込んできた。 「間に合わなかったわねぇ……」  乾いたベージュ色の庭土を見る。インクを落としたように鮮やかなクロッカスは咲いたけれど、母が心待ちにしていた庭木の蕾は固く閉ざされたままだ。 『今年は、2月の終わりに寒の戻りがあったから』  介護ベッドの横の壁に掛けていた、カレンダーに触れながら、母は目尻の皺を深くした。月捲りの大きなカレンダーは、上半分に季節の花と景観を組み合わせた写真が載っている。庭いじりを趣味にしていた母のために、私が大型書店まで足を運んで買ってきた物だ。この3月は、富士山を背景に満開の桜が咲き誇っている。外国人受け間違いなしのベタな日本の風景。それでも母は気に入ったらしく、父と熱海に行く途中、列車の窓から富士山を見たのよ、と何十年も昔の話を何度も繰り返しては、目を細めた。  カレンダーの日付部分には、数字やら記号が並ぶ。紐でぶら下げた赤いサインペンで、母は自分だけに分かるを書き込んでいた。丸印は、ヘルパーさんの訪問日。三角印は、私が泊まりに来る日。 『私は、三角なのね』  ヘルパーさんの方が、私が来るより回数が少ないのに。しかも、理美が来る日には、花丸印が咲いていた。あの子なんて、月に一度、顔を見せるかどうかも怪しいのに。暗号の意味に気付いた時、私は拗ねた。 『だって、あんたは三角形だもの』  母の説明は理解不能だ。私が三角形とは、どういうことか。こんなに一生懸命通って来ているのに、不満があるというのか。突っ込んで尋ねるのは惨めに思えて、それ切り、私はカレンダーの暗号に触れるのを止めた。日付の下に毎日記されている謎の数字も気にならないと言えば嘘になるが、意味を知らない方が母に優しく出来そうな気がした。
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