600度の贈り物

3/6
19人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
 余計なことを思い出してしまった。ちゃぶ台の汚れを拭いたウェットティッシュを黄色いゴミ袋に突っ込む。袋に半分隠れて、覚えのある(こす)れが床にある。 「ふふ……懐かしいわね」  あれは、中2のこと。うっかり指先に切り傷をこしらえた母に代わって、私がぬか床を混ぜようとした。重いからいいわよ、と母が気遣ってくれたのに、役立ちたいと勇んだ私は少し強引にシンク下の収納を開けた。えんじ色の甕は予想外に重く、力任せに取り出したら、漬物石が蓋の上から滑ってゴトリと落ちてしまった。焦げ茶色の床板に、白い傷が生々しい。失敗が悲しくて涙を滲ませた私に、母はカラカラと笑った。 「基子(もとこ)、ここ見てご覧。あたしも、やっちゃったのよ」  母が示した先には、私が付けたよりも大きな凹みと傷痕。時を経て色は馴染んでいるけれど、目を凝らせばはっきり分かる。 『お祖母ちゃんが、嫁が受け継ぐものだって、許してくれなくてねぇ』  この家に嫁いできた当時、ぬか床の世話は父の母――私の祖母の仕事だった。若かりし母は、毎日欠かせない“ぬか床作業”が大嫌いだったと苦笑いした。 『嫌々すると、集中しないでしょ。6日目に落としたの』  床に付いた大きな傷を見て、母は青ざめた。その場にへたり込んで、必死に頭を下げた。ふつつかな嫁だと、叱責を覚悟したが――姑は、まず嫁の両手を取った。 『怪我がないかって、何度も聞くの。あたしの指を1本1本触って確かめてね……。礼儀やしきたりに厳しい人だから怖かったけど、あの時、親子にしてもらっていたんだなぁって』  驚きと嬉しさで、母は泣いてしまった。それを祖母は、床に傷を付けたせいで泣き出したと勘違いして、穏やかに宥めてくれた。 『これで、あんたもうちの家族なんよ』  家に傷やら穴やら付けるのは、その家で暮らしていれば当たり前のこと。 『お客さんは、やらんことじゃけぇ気にせんでええ、って笑って許してくれたのよ』  母もまた、私の失態を責めずに許してくれた。床の上の優しい記憶を撫でる。それから、母が家族の一員として歩み始めた大切な記念にも。  ふと見渡せば、無数の記録があった。2階の洋室の壁には、虫ピンの穴。私達姉妹の子ども部屋だった頃、夢中になったアイドルのポスターを貼っていた。廊下の柱には、目盛りの痕。中学生になるまで、こどもの日が来る度に成長を刻んできた。和室の天井付近には、漆喰の剥げ。小学生の寛基が蹴ったサッカーボールが勢いよく当たり、生じたひび割れが劣化して崩れた。それから――。  この家で織り成された家族の歴史。今更ながら胸が締め付けられる。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!