旅立ちと別れと、再会。

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旅立ちと別れと、再会。

 大きな川にかかる陸橋を、電車が進んでいく。線路が伸びるその先に、家々が並ぶ小さな町並みが見えた。 (新しい生活が始まるんだな···)  前住んでいた町からは、ローカル電車を乗り継いで5時間程かかった。山が多い地形なのだろう、何度もトンネルを潜る度、景色がどんどん緑でおおわれていく。  生まれてからずっと住んでいた町を出るのは寂しくもあるが、同時に楽しみでもあった。  昨日、理解不能な事が起きて、自分自身の事ですら解らなくなってしまったと言うのに、こんな気持ちになれるのは···ポケットの中に有る物のお蔭だ。 (──これがなかったら···おれは···)  ポケットの中で、手紙をキツく握りしめる。  昨日───丈夫なだけが取り柄のおれが、体も心もボロボロになって帰り着いた、深夜の自室。いつも通り散らかっている室内に安堵する余裕もなく、疲れた体を勉行机に備え付けの椅子に預けた。  見るともなしに向けた視線の先には、見知らぬ封筒が有る。  外出する時は無かったそれに、何故かすがるような思いで差出人を確認し、全身が震えた。  それは、亡くなった兄、秋鵺(しゅうや)からの手紙だった。  幼い頃に忽然と消えた兄は、“兄”とは言っても再婚同士の親の連れ子なので、おれと血の繋がりはない。挙げ句、共に暮らしたのも数日だけだったので、殆ど一緒に居た記憶もないが···何故か、秋鵺のことだけは、鮮明に覚えている。  兄が行方不明になって1週間しない内に義母(かあ)さんは父さんと喧嘩して家を出ていき、気落ちした父さんも呆気なく病気で逝ってしまった。    以来、おれを引き取って育ててくれたのは父方のばあちゃんで、ばあちゃんからは、「お前の兄は亡くなった」と聞かされていた。  それなのに。  逸る気持ちから震える手で開けた手紙の中には、一筆箋(いっぴつせん)と地図が入っていた。達筆な文字で一筆箋のド真ん中に記された、秋鵺の言葉。    『    美春(よしはる) 俺の元へ来い    』 「あは···」  つい、笑いが込み上げた。 記憶の中には、幼いけれど頭が良くて大人が舌を巻くような指摘を冷静にする、目が覚めるほど綺麗な顔をした、秋鵺の姿があった。 (会いたい、なぁ···。よぉッし!!)  たった1文で、家を出ると決めた。同封されていた地図が示す場所までの電車賃を確かめ、財布と着替え数枚を鞄に詰める。 (高校の卒業の日にこんなことになるなんて思わなかったけど···旅立つには、良かったのかな)  玄関先の小さな靴が視界に入り、胸は痛むけれど、ばあちゃんはおれと顔を会わせ辛いだろうし、おれも正直どんな顔をしたら良いのか·····解らない。  だから、『今まで育ててくれてありがとう』と、一言だけ書いた手紙を残して、家を出た。 * * * * * (おぉ、着いた!)  映画などでしか目にしたことのない無人駅で降り、一緒に降りた人に倣って改札を抜ける。  こぢんまりとした駅の中には数人の電車を待つ人が、椅子に腰かけていた。改札とガラス窓で仕切られた向こうには、シワのない制服と帽子を身に付けた老齢の駅員さんが立っている。  周囲を見回してこれからどうしたものか、と立ち竦む。指定された駅には、たどり着いたけれど。 (そう言えば、この町まで来ることしか考えてなかったな···)  ポケットから手紙を取り出し、地図を見直しても···町まで来るのに必要な電車のルートと目指すべき場所は書いてあるが、その後のことはなにも書かれていない。    ちなみに、ばあちゃんと2人暮らしで生活費に余裕がなかったから、スマホなんて持っていない。 (友達が見せてくれたスマホのナビ機能があれば、地図で指定された場所までの行き方も解るんだろうけどな···) 「きみ」 「はい?」  声をかけられて振り向けば、電車待ちで座っていたお爺さんが立ち上がり、おれの顔と、手に持つ封筒を、じっと観察してきた。 「その手紙の差出人は、四季魅(しきみ)さんかね?」 「あ···はい」  指摘され、思わ封筒を裏返して差出人名を確認した。裏には確かに、流麗な字で『四季魅 秋鵺』と記されている。 (四季魅···。父さんと義母さんが結婚する前の名字、なのかな···?)  数日しか共に過ごさなかったとは言え、秋鵺と義母さんの旧姓を知らないことにも、“秋鵺”という名前の文字が珍しいため、何の違和感も抱かず此処まで来てしまった自分の勢いにも、呆れた。 (同じ名前の全然違う人からの間違った手紙だったら、どうしよう···)  今更ながらにその可能性を考えてしまい、背中に冷や汗をかきだしたおれに、お爺さんがふわりと優しく微笑んだ。 「秋鵺くんは、ずっときみを待っておった。早く行ってあげると良い。駅前のバス停から、役場までの無料バスが出てる。それに乗って、四季という停留所で降りれば、四季魅の家は目の前だ。 ···うん、ちょうど、あと5分くらいで来るだろう」 「ぇ、あ。ありがとうございます!」  おれの不安を軽く吹き飛ばしてくれたお爺さんにお礼を述べ、駅舎を出れば、目の前に小さなバス停があった。人も、数人並んで待っている。 (良い人に出会えてよかった~。ん? でも何で、おれの顔、知ってたんだろ·····?   まぁ、後で秋鵺に聞けば良いか···)  取りあえずは安堵で胸を撫で下ろし、バス待ち列の一番後ろに並べば、目的のバスは直ぐにやって来た。 * * * * *  外装にサビが浮いた少し旧式のバスに乗り込み、空いていた一番奥の座席に腰かける。 (さっきの人が教えてくれた『四季』って所まで、どれくらい時間がかかるかわからない。座って行こう)  余裕を持って座ったつもりだが、バスがカーブに差し掛かる度に車体が傾き、隣に座っているお婆さんに肩が当たってしまう。  それ事態は、満員電車も経験してきたおれからしたら、気にすることでもないのだが···。 (すっごい睨んできてるよなぁ····)  お孫さんだろうか。お婆さんの向こう隣に座っている、多く見積もっても20代前半ほどの男性が、気付かないでいるのは無理なくらいあからさまに不機嫌感を丸出しで、おれを睨んでいる。 (·····おれ、何かしましたっけ?)  考えてはみるものの、特に思い当たることがない。 (お年寄りに気を遣えってこと? いや、俺だってできれば最低限の距離を空けたいけど、カーブで車体が揺れるのは、おれのせいではなくない?!)  などと思っている最中、再び車体が大きく揺れ、今度はお婆さんがおれの方へ倒れ込んで来る。 「····ッ」  男性の圧し殺した低い声が漏れ、倒れかかったお婆さんの小さい体を、腕を伸ばしてしっかり支えた。  まるで若いカップルの男性が身を寄せ、彼女の肩に腕をまわして引き寄せるかのような動きを間近で見せ付けられている訳だが、それでおれを睨むのを止めてくれるなら、何でも良かった。  しかし、男性はおれとお婆さんを隔てるのに腕だけでは満足できなかったのか、横のお婆さんを軽々と抱き上げ、自分の膝上に座らせて、腕の中に抱え込んでしまった。 (?! え、そこまでします??? 周囲が見えてない付き合いたてカップルくらいイチャつくじゃん···?)  彼の向こう隣にも男性が座っており、お婆さんの横を守るにはそれしかないのかも知れないが···幼い子供ではないのだ。  膝の上に乗せられたお婆さんは、恥ずかしそうに 「1人で座れますから下ろしてください、お爺さん」 と抗議している。 (───ん??? お爺さん????) 「他の男に触れさせるなど···儂が我慢ならん」 (若い男って···おれのこと?? え、実は若作りだけどお爺さんだった??? おれの見間違い?)  思わず孫と思っていた男性の顔を、じっくり見つめてしまった。 (うーん···?)  やはりどう見繕っても、隣の男性は10代から多く見積もっても20代半ばに見える。  髪の色は車内の灯りに透けて黄金に光る薄い茶髪で、瞳は灰色と碧を混ぜた不思議な色彩だった。 (生粋の日本人じゃないのかな···。しかし、とんでもないイケメンだ···)  比較的しっかりとした体躯で、今は座っているからはっきりは解らないが、身長も高そうだ。  とてもじゃないが、彼の膝にちょこんと乗せられている小さなお婆さんと同じ年代には···思えない。 「おい、いつまで見ている。不躾な童だな」 「童って··。貴方も同い年くらいじゃないんですか?」  メチャクチャ上から目線な口調で子供扱いされ、さすがに腹が立って言い返せば···整った眉が片方、不快そうに持ち上がった。 「失礼な奴だ。お前、この町の者ではないな?」 「今日越してきたんだよ」 「ほぅ···?」  『越してきた』と告げたら、生意気なイケメンは急に顔を近付けて来て、おれの目をじっと見つめたあと、感慨深そうに瞳を細めた。 「あぁ···お前が四季魅の所の···。ならば覚えておけ。 この町には、“見えるものが真実とは限らない”現象が、多々ある。儂の姿も、その一つに過ぎん。 彼女は紛れもなく儂の連れ添い、嫁なのだから」 『見えるものが真実とは限らない』なんて言われても、以前のおれならば理解できなかっただろう。でも、あんなことを経験した後では····(何が起きたって不思議じゃない)と、思える。  ───思える、けど。 (ん? ···ヨメって·········お嫁さんって、こと?) 「お爺さんが、ごめんなさいね」 「い、いえ」  柔らかく声をかけられて見上げれば、皺の刻まれた分だけ優しさが滲み出ているような顔のお婆さんが、おれを心配そうに見ていた。 「不安に思わせたくはないのだけれど···お爺さんが言ったことは本当なの。この町で暮らすのなら、最初は驚くことも多いでしょうけど···大丈夫。みんな優しいから、少しずつ慣れてくれると嬉しいわ」 「はい···」 「おい! いつまで若造と話しておる!!」 「もう。いつまでたってもヤキモチ焼きなんだから」 『───神社前、───神社前です』  停車駅を告げるアナウンスが社内に響く。話をしている間に、バスは停留所に停まっていた。 「帰るぞ」 「はいはい」  お婆さんを抱え直してバスを下りた後、2人はしっかりと手を繋いで、山の奥へと続く階段を上がっていった。 (不思議な人達だったけど、お互いを労っていて···お似合いの2人だな)  寄り添い合っている2人の姿は、とても素敵に思えた。 * * * * * 『次は四季───四季──···』 (お、此処で下りるんだったよな)  ブザーを鳴らし降車を告げ、バスを降りる。 停留所の正面には、大きな山に続く道が見えていた。その他には、緑以外何も無い。  バスが走り去った道路を振り返ってみても、山道特有の曲がりくねった道路が続いているだけで、ガードレールの向こうは断崖と、その下は川だ。 (ってことは、やっぱこの山を登るんだなー···。よっし、行くか!)  気合いを入れ、荷物を背負い直し、山道に向かって足を一歩踏み入れた。  ────瞬間、目の前の景色が、ガラリと変わる。 鬱蒼とした山道だったのに、開けた広い敷地と色とりどりの花や手入れされた木々が生い茂る庭、奥には平屋の大きい屋敷が見えた。  そして、正面には─────成長しても見間違えようのない、懐かしい姿。 「遅かったな」 「え、ぅわっ!!」  急に景色が変化したことにも、目の前に秋鵺が居ることにも反応できずにいたおれは、声を掛けられたと認識する前に、秋鵺の腕の中へ抱き込まれていた。 「相変わらずの間抜け面で安心したぞ」 「は?!」  声も態度も横柄で、決して歓迎しているとは思えないのに···おれを抱き寄せる腕は、とても優しい。 「待っていた、美春」 「──···」  おれの首筋に顔を埋めている秋鵺の髪も鼻も吐息も、とてもくすぐったくて、触れる体温は温かくて····じわじわと体の強張りがとけていくのを感じた。 「····疲れただろう、部屋に案内する」 「うん。お願いします!」 (聞きたいことは色々あるけど、荷物を置いてからで良いか! ────しかし···)  おれの手を引いて前を歩く秋鵺は、相変わらず、浮世離れしたイケメンだった。  青い光を湛えるほど艶やかな黒髪に映える白磁の肌はキメが細かく、毛穴など全く見えない。切れ長の瞳は翠がかっていて神秘的にすら見え、長い黒髪を後ろに束ねて青い着物を纏っているという、似合う人が限られた装いも、秋鵺の立ち姿を引き立てていた。 (う~ん···。我が兄ながら、色っぽい····)  成長して、ますます妖艶さに磨きをかけたようだ。 しかし、思ったより身長差はなかった。おれより大きくなってるって想像してたから、ちょっと意外だ。  門をくぐり、広い庭を抜けて、大きいお屋敷の扉が開く。秋鵺が動く度、周りを優しい光が舞って見えるのは、イケメン特有のエフェクトかなにかだろうか。 (昨日おれに起こったことから今まで、不思議なことだらけだ。秋鵺なら···おれの疑問に答えてくれるんじゃないか?) 「荷物は其処に置いて、それに履き替えろ」 「ぁ、うん」  促されるまま背負っていた荷物を入口に下ろし、靴を脱いで、用意されていたスリッパに履き替える。 「ついてこい」 「ハイ」  秋鵺の後ろをついていくと、大きい和室に着いた。広い部屋の真ん中には、部屋と対比すると小さすぎるくらいの四角いテーブルが置かれていて、何故か既視感を覚える。 「まずは座れ。···茶、飲むだろう?」 「うん!」  秋鵺の向かいに置かれた座布団の上に座り、示された卓上を見れば、小さい頃おれが好んで飲んでいたメーカーの紅茶が、幾つか並んでいた。 「これって···」 「今のお前がまだこの茶を好んでいるかは分からんが···一緒に暮らしていた時は、好きだっただろう?」 (あの数日のこと、覚えていてくれたんだ? おれの好みまで···)  明らかな表情の変化はないけれど、少しだけ照れ臭そうに視線を外す秋鵺の仕草は、記憶にある幼い彼と、同じだった。 (そっか、このテーブル···秋鵺と暮らしてた時に、家にあったのと····似てるんだ)  父さんと義母さん、秋鵺とおれ。4人で住むには狭いアパートの一室は、こんなに広くはなかったけど。 (秋鵺なりに、あの時間が懐かしいとか、おれという弟を、気にかけてくれていたとか···思うところがあるのかな? だったら、嬉しいな···。  ───待てよ? ···そうだとしたら、やっぱり秋鵺のことは、『兄』と呼んだ方が良いのか?)  秋鵺がおれを【家族だから】気にかけてくれているなら、その方が自然かもしれない。 「兄さん···」 「兄などと呼ぶな。血の繋がりはない。知っているだろう」  どうやら、おれの思惑は秋鵺の気持ちから大きく外れていたらしい。  さっきまで、とても優しくて甘い表情をしていたのに、急に不機嫌になった秋鵺に“血の繋がりはない”と切り捨てられ、不満を抱く。 (血が繋がってなくても、“家族だから”呼んでくれたんじゃないのかよ···) 「···じゃあ、何て呼べば良いの?」 「名前で構わない」 「····秋鵺」 「なんだ」 「兄弟じゃないって言うなら、おれを呼んでくれたのは、何で?」  素直な疑問をぶつければ、秋鵺は真っ直ぐにおれを見つめ、何でもないことのようにとんでもないことを口にした。 「お前が、俺の“龍”だからだ」 「!!!」  龍。それは、おれが住んでいた町を、ばあちゃんの元を離れなければならなくなった、元凶。 (なんで····秋鵺がそれを、知ってるんだ····?) 「その力で、俺は四季魅の真の当主足り得る」 「どういう、意味だよ」 「四季魅の者が龍を選ぶ意味など、昔から一つだ」  面倒臭そうに視線を外され、秋鵺からはこれ以上聞き出せないと悟った。 (昔から頑固だったもんな。一度決めたら絶対に覆さねぇし) 「はいはい、わかりました~。もう聞きませ~ん」 「ふん」  思い出と変わらない秋鵺がそこにいて、それだけで何だか胸がいっぱいになった。 (おれが龍になっても、秋鵺は怖れないし離れない。今は、それで良いや···)  そう。おれは、昨日突然、龍に変身できるようになってしまったのだ。  その姿をばあちゃんに見られ、とても恐ろしい思いをさせてしまったと思う。だから···もう、共に暮らすどころか、顔を会わせるのも···正直、怖い。  昨日のことを思い出し俯いたおれの肩を、いつの間にか横に来ていた秋鵺が抱き寄せる。 「···此処で不自由はさせない。美春は、俺の傍に居れば良い」 (·····慰めてくれてんのかな?) 「うん、ありがと。秋鵺···」 「!!」  不器用な優しさが嬉しくて、秋鵺の背に腕を回したら。 「ッ──」  息をつめた秋鵺に顎を持ち上げられ、至近距離にある秋鵺の顔に驚く間もなく、どんどん距離がなくなって───。 「ンん?!」  口に手を当てられ、思い切り距離を空けられた。 (なにそれ。そっちが近付いてきたんだろ?!)    理不尽な秋鵺の態度に抗議しようと彼を見れば、珍しく顔を真っ赤にして、おれから視線を反らす。 「···悪い」 「え? いや、別に···」 「·····お前、自分が何をされそうになったのか、解ってないだろう」 「何を、って?」  おれの表情を見て、秋鵺は呆れたように溜め息を吐く。 「龍は、四季魅の当主に力を捧げるもの。つまり、お前は俺の餌だ」 「え···」 (─────エサって···餌?! ご飯ってこと???  おれが、秋鵺のご飯になるって···どういう意味·····?)  おれが考え込んでいる間に、部屋の奥からヤカンを持ってきてお茶の用意を済ませた秋鵺は、何事もなかったようにテーブル上の茶葉の缶を指す。 「どの茶葉にする?」 「あ、じゃあ、アールグレイが良い」 「わかった」  温めたティーポットに良い香りの茶葉が入れられ、ヤカンのお湯が注がれていく。ティーカップに紅茶を入れる秋鵺の所作は様になっていて、とても“食う”とか、生臭い話をしているようには見えない。 (からかってんのかな···?) 「どうぞ」 「ありがとう」  目の前に置かれたティーカップを受け取って、温かい内に口に含む。  慣れない電車旅に、昨日のおかしな現象も合わさって、疲れたおれの体に紅茶の温かさと優しい香り、美味しさが染みた。 「~~~·····ぉ美味しい···」 「···そうか」  優しい声色に顔を上げれば、秋鵺は穏やかに微笑みながらおれを見つめていた。  その瞳はあまりに慈しみに満ちていて、今から食い殺す相手に向ける表情には、とても思えない。 (···やっぱ、食うとか嘘でしょ? だいたい、おれって美味そうじゃないし)  でも、もしも。 ···もしも、秋鵺のご飯がおれだけで、おれしか秋鵺の栄養になれなくて、それで秋鵺が飢えてしまうなら─────。  食べられても、構わないと思った。 「···秋鵺って、人間食うの?」  口から出た質問は物騒だけど、怖れも怯えもない静かな気持ちで問えば、秋鵺は自分の分の紅茶で口を潤した後、憮然と答えた。 「人間など食わない」 (なんだ、やっぱり嘘じゃ···) 「でも、お前は食うぞ?」  口の端を持ち上げ、シニカルな笑みを見せ付ける秋鵺の思惑が、解らない。 「な、何で?」 「美春は俺の、龍だから」  ティーカップをテーブルに置いた瞬間、乗り出した秋鵺に胸ぐらを捕まれ、驚く間もなく距離を詰められた。 「察しが悪く、危機感もないお前に、忠告してやる」 「え──···」 「俺が言う、“食う”とは───こういう意味だ」  一瞬だけ、唇に感触が掠める。触れた、と、やっと認識できるだけの微かな感覚。 「···美味い」  色を深めた瞳が、物足りなそうにおれを捉える。自身の唇を舐める仕草は、正に獲物を前にした妖艶な獣に見えた。
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