1/1
10人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ

 苦しい、くるしい。肺に水が満たされているように胸がずっしりと重い。息がうまくできない感じ。視界は緑がかって全てのものがくすんで見え、周囲の音も水中のようにもわもわと響いてよく聞こえない。まるで溺れているみたい。僕の周りにだけ張られた薄い膜の中、不快な緑色の水に閉じ込められているのだ。  僕と同じ制服を来た高校生たちが、友人と笑い合いながら電車に揺られている。きっと若さでキラキラしているんだろう。僕には緑のフィルターがかかっているからそうは見えないけれど。吊り革に摑まって同じリズムで揺られている僕は、薄膜を隔ててその青春のきらめきと断絶されている。みんなは楽しそうに笑っているのに、なんで僕はこうなんだろう。その答えはわかりきっていた。  「僕は誰にも愛されない」──だから辛いのだ。笑い合う友もいない。恋人? 考えたことすらない。そんな贅沢なもの以前に、僕は産みの母親からさえ愛された記憶がない。  普通なら、母親というものは無条件で自分の子供を愛すと聞く。しかし僕の母は、息子など眼中になく自分を一番に愛している人だった。自分と息子の食い扶持を稼ぐために夜の仕事をしていたが、そのストレスを発散するために、軽薄な男たちと遊ぶのが大事な人だった。そんな彼女にとって僕はむしろ邪魔な存在で、放っておかれるならまだいい方、大抵邪険に扱われた。夜は彼女がいないので、暗い静かな部屋でひとりぼっち。僕が生まれて一番最初に覚えた感情は「孤独」だった。  どうして僕は母親にさえ愛されないのだろう。子供の頃から何度も考えたことがある。その度に出るのが、「僕は人間ではないのかもしれない」という結論だった。ヒトを含む哺乳類はみな、自分の子供を慈しみ育てる本能が備わっている。その摂理から外れてしまった僕は、もしかしたら、虫か何かなのかもしれない。だから誰からも愛されないのだ。初めてその考えに至ったとき僕は膝を打った。虫ならば愛されなくても仕方ない。人間なのに愛されないなんて辛すぎるから。そうだ、僕は虫なんだ。きっと毒々しい色をした醜い芋虫なんだ。そんな虫を好きになる人間なんていない。僕は事あるごとにそう自分に言い聞かせるようになった。  そんなふうに人間としての尊厳を捨てているつもりでも、僕は人間の姿をし、人間として生きている。普通の、正真正銘の人間に囲まれて過ごしている。周りには仲睦まじく慈しみあう人たち──そんな光景を見ていると、なんとも言えず死んでしまいたくなる。きっと僕の名前なんてクラスの誰も覚えていない。誰からも愛されない、それどころか必要とされない。そんな人生に意味なんかあるだろうか。なんで僕は毎日ご飯を食べて、電車に乗って、生きているんだろうか。虫なら虫なりに、早く死んでしまえばいいのに。  現実が辛い時、外の世界から身を守るためなのか、僕の周りには体を覆うように緑の水が溜まりはじめる。しかし自家中毒のように、その水に溺れるように苦しくなってしまうのだ。人生ってなんでこんなに辛いんだろう。でも助けを求めるような発想すら僕には浮かばなかった。水溜りで溺れている虫を助けようなんて人間はいないことを、僕はよく知っていたから。  高校の最寄駅に到着して電車を降りると、苦しさも幾分ましになった。電車という密閉空間は空気も澱んでいるし、一定のリズムで揺られていると思考もぐるぐる回ってしまって苦しくなるのだろう。久しぶりに酸素にありつけた気がして、深呼吸をして歩き出した。  校門には満開の桜。その向こうには真っ青に澄み切った空。普通の人間なら綺麗だと喜びそうな景色だけれど、僕はそんな感想は抱かない。緑色のフィルターのせいで濁って汚く見えるし、空の色なんてどうでもいい。そんなことより、また一年が始まる。面倒だな。毎年代わり映えのしないつまらない学生生活を送っている僕はそんなことを考えていた。  この日は始業式だったので、玄関ホールで靴を履き替えたその足で体育館へと向かった。入り口前に設置してある長机の上のプリントの山のうち、第二学年のクラス分けの紙を取る。周りの生徒は新しいクラスで誰と一緒になれただとか離れただとかに一喜一憂していたが友人のいない僕には関係ないし、どんなクラスになったってどうでもいいのでプリントの内容を見ることもなく体育館の中に入っていった。  校長の話ってなんでこんなに長いのだろう。原稿もないのによくあんなに喋れるものだ。その上誰も真剣に聞いてなどいないというのに。御多分に洩れず僕も聞いていないから、内容がちゃんとしているのかさえもわからない。むしろ誰も聞いていないからこそあれだけ喋れるのかな、などとぼーっと考えていたら、やっと校長の演説が終わった。誰も真面目に歌わない校歌斉唱ののち、ステージ上にパイプ椅子が並べられはじめる。全部で六脚。今年度から異動してきた教師たちの着任式が始まるのだ。教頭の軽い挨拶のあと、一人一人の挨拶が始まった。別にどんな教師が入ってきたってやはり僕には関係ないのでまたぼーっと聞き流していると、とある教師の挨拶が不快なマイクのハウリングとともにキン、と頭に響いてきた。声がでかいのだ。そんな奴は往々にしてデリカシーがないから僕は嫌いだ。しかし耳が音に反応して、いやが応にもステージ上に意識が向いてしまう。  その教師は今時の言葉で言うといかにも「陽キャ」という感じで、僕は一目見て、絶対に関わりたくないなと思った。若くて明るくハキハキと喋り、いかにも情熱を持って教師をしてます、という風で。僕はそんな希望に満ち溢れた人間が苦手だった。自分とは生きる世界が違うと思うから。その教師の名前は聞いていなかったが挨拶の中で「2年A組の担任を務めさせていただきます」という言葉が耳に入った。僕はなんだか嫌な予感がして先程のクラス分けのプリントを見る。嫌な予感だけは昔から本当によく当たる。僕は自分の名前が2年A組の欄に印字されているのを発見してしまった。今年度はいつにも増して嫌な年になりそうだ、と僕はため息を吐いた。  新しい僕の担任は名を高海と言った。高海一也(たかみかずや)。年齢は二十七歳とこの学校の教師陣の中では一番若く、専門は保健体育。よく陽に焼けているし、ポロシャツから伸びる首や腕はしっかりとしていて、いかにもって感じだ。顔つきは太い眉が男らしく、それでいて少し垂れ目気味の目が甘い雰囲気を醸し出していて、いわゆるイケメンの部類に入るものだった。女子生徒たちが浮き足立って「彼女はいるのか」などと色々と質問責めにしている。高海はそれらを適当にいなすと、 「そういうわけで、この一年みんなと一緒に俺も成長していきたいと思ってる。よろしくな」  と言った。白い歯を見せてにかっと笑った顔が爽やかで、クラス全員が「はーい」と元気よく答えた。僕以外は。  高海のその言葉でホームルームは締められ、クラスメイトたちは三々五々散っていった。各々の部活や、帰宅の途に就くのだろう。僕は部活に入っていないので帰り支度をしたものの、折り合いの悪い義父のいる家に早く帰るのなんて嫌だった。いつもなら図書館で本を読んで時間を潰したりするのだけれど、あいにく始業式なので開いていない。どうしようかな、と思案しているといつの間にか教室に残っている生徒は僕一人になっていた。ふと顔を上げると、同じく教室に残っていた高海と目が合った。高海は人好きのする笑顔を浮かべ、僕に歩み寄ってきた。 「よぉ、遥。……だっけ? お前、部活はしてないの?」  はるか。今、僕のことを遥って呼んだのか。初対面でいきなり下の名前で呼び捨てにされるなんて。その馴れ馴れしさに僕は辟易し、ますます苦手だな、という感情を強めた。不機嫌さを隠しもせずに、目線だけを上げて高海を見やる。自分の名前は好きではない。なんだか女の子っぽくて。僕が黙っていると、高海は続けた。 「お前のことは聞いてるぞ〜。優等生なんだってな。生物が得意なんだって?」  僕はふん、と小さく鼻を鳴らした。着任早々生徒の情報を頭に入れているのは褒めてもいいが、僕についてはどうせろくなことを聞いちゃいないだろう。「劣悪な家庭環境を持つ生徒」とでも申し送りされているに違いない。それで気を遣ってきたのだ。優等生というのもお世辞だ。確かに生物は得意だけれど、総合的な成績はせいぜい中の上程度だから。  この調子で高海に絡まれるのが嫌で、僕は立ち上がった。鞄を肩にかけ教室のドアに向かって歩き出すと後ろから声を掛けられる。 「また明日な! 大事な高校二年、一緒に頑張ろうな!」  感じ悪く無視をした僕なんかに掛ける爽やかな言葉に反吐が出そうで、そんな風に感じる自分がもっと嫌でどうしようもなかった。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!