エピローグ

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エピローグ

 チャイムが鳴る。クラス委員が号令をかけ、授業が始まる。前の席から順に、プリント用紙が送られていく。 「小テストを始めます。十分後に回収します。では始め」  生徒たちが一斉にシャーペンを走らせる音が教室に響く。僕は左腕にはめた時計を確認し、教壇から降りて窓際へと歩みを進めた。ここは三階の教室。腕を組んで見下ろす校庭では、どこかのクラスが体育の授業でサッカーをしているのが見えた。体操服の生徒らに混じって走り回るジャージ姿の教師。審判をしているのだろうか。どんな顔をしているのだろう、どうにか顔が見えないかな、とずっと眺めていたら、ふと彼が足を止めこちらを見上げ、目が合った。彼は白い歯を見せて笑ったかと思うと、また生徒たちとボールを追いかけに戻った。僕はその一連の流れに密かに胸を高鳴らせる。  完全に外に向いていた僕の意識は、教室の生徒からの声で呼び戻された。 「遠野先生、もう時間です」  発言したのは先ほど号令をかけていたクラス委員の生徒。周囲からは「言わなくていいのに」などとの声が上がっている。僕はばつが悪くて小さく咳払いをする。 「失礼しました。後ろの席の者、回収して」  集まってきた解答用紙の向きを揃えながら、僕は十時間後の予定に思いを馳せるのであった。  授業が終わり、職員室で小テストの採点、次のテストの問題作成、授業の準備、実験材料の手配などをしていたら時刻はいつしか八時を回ろうとしていた。当たり前だが外は真っ暗だ。僕はそれらを適当に切り上げ、生地職員室を後にする。この学校は科目ごとに職員室が分かれていて、生地職員室は文字通り生物と地学の教諭に与えられた部屋だ。その中で今日は僕が一番遅かったので、消灯と戸締りをして一階の管理室に鍵を返しにいく。その足で体育館横の体育教官室に向かった。 「失礼します」  声をかけて室内に入ると、自席で事務作業か何かをしていた高海が僕に話しかけてきた。 「お〜、遠野先生。ごめんな、これだけ書いたら行くから」  周りに他の教諭はいなかった。残っているのは高海だけだ。僕は高海の席まで歩いていって、作業を覗き込む。 「学級だよりですか。相変わらず毎日書いてるんですか?」 「いや、最近は毎日じゃねぇよ。忙しくてさ。週一くらいかな」 「そうなんですか。若い頃はあんなに情熱があったのにね。早くしてくださいね。僕はいいけど遅くなると桃井さんがうるさいので」 「俺はまだ若いっつーの! ……よし、できた。コピーは明日の朝でいいか」  高海は今しがた書き終わった学級だよりの原稿をクリアファイルに入れると立ち上がった。 「行こ行こ! リカコ怒らせると怖いもんなぁ」  高海が僕の背中をぽんぽんと押しながら教官室の出口へと促す。  四月の終わり。新学期の忙しさも少し落ち着いてきた。この日は僕と高海と里香子で、食事会をすることになっていた。同じ学校に勤めている僕と高海が一緒に僕の車に乗っていって、別の学校に勤めている里香子を拾って店に行くという段取りだ。  里香子の学校に着くと、校門の外で待っていた彼女に案の定「遅いわよ」と怒られた。彼女に後部座席に乗ってもらって、高海が助手席、僕が運転。高校の頃とは反対側に座っていることに不思議な感慨を覚えた。  予約した店は落ち着いた感じのダイニングだった。半個室のようになっている席に通され、僕と里香子が隣りに座り、高海と向かい合う形になった。店内は薄暗く、暖色の間接照明がやさしく僕らを照らす。 「あなたたちは遠慮せず飲んでくださいね。僕が責任持って送るので」 「ありがとう」 「じゃあ遠慮なく」  やがて料理と飲み物が運ばれてきて僕たちはグラスを合わせて乾杯した。高海と再会してからこうやってゆっくりと話をするのは初めてだ。話題は自然、そういう話になる。 「それにしても、教え子が二人も教師になるなんて感慨深いねぇ〜。俺も年取るはずだわ」 「さっき『まだ若い』って言ってたじゃないですか」  僕と里香子はこの春から教師になった。僕は生物科教諭として高海と同じ高校、里香子は家庭科教諭として近くの高校に勤めている。実は里香子とは大学も一緒で、長年よき友人として付き合ってきた。 「まさか、あの頃秘密だって教えてくれなかった遥の夢が教師だったなんて驚いたな」 「そうかしら。あなたたち二人を見てたら遥が教師を志すのは当然のように思たけど」 「え? そう?」  高海は本当に僕の気持ちに疎いなぁと思った。まぁ、だからこそ教師になったことを報告しにいったときにかなり驚かせられたので僕としては小気味良かったが。 「それにしても遥は変わったわよね。元々女子の間では『美男子』って人気あったけど、目がどろっとしてて私は苦手だったわ、最初」 「ひどい言い草だな」  里香子の言葉に僕は苦笑する。 「でも今はちゃんと目がキラキラ光ってて、本当にいい男になったわよ」 「そういえばお前ら、大学も一緒だったんだろ? 一度も付き合ったことないわけ?」 ──本当にこの人は。わざとなんだろうか。 「いやよ。ていうか無理よ。他に思い人がいる男なんて」 「里香子」  僕が彼女を嗜めると、 「あら、ごめんなさいね遥。でもあまりに無神経だからこの男」 「えぇ? 俺、『この男』呼ばわり?」  ツッコむべきところはそこなのか、と僕はため息を吐いた。本当に無神経な男だ。まぁそこに助けられる部分も、大いにあるけれど。  そんなこんなで、五年ぶりの再会とは思ないほどくだらないことを喋りながら食事を楽しみ、あっという間にお開きの時間になった。楽しく充実した時間というのは短く感じるものだ。 「今日はありがとう。また三人でお食事しましょうね」  里香子を家まで送り届け、二人きりのドライブとなる。僕の一人暮らしの部屋と高海の住んでいるところはそう離れてはいないのだけれど、ちょっと寄りたいところがあるんです、と高海に了承をとり、僕は「あるところ」へと向かった。  ある丘のふもとに車を停める。あの夏に来た場所だ。 「懐かしいなぁ。ここに二人で来るの。今日も星がいっぱいだ」  車から降りた高海が早速空を見上げている。僕は丘の上へと続く小道を先に歩いた。後から高海がついてくる。  丘の頂上に着くと、僕らは並んで寝転がって星を見上げた。大きく輝く一等星から、六等星だろうという小さな星まで輝いていて、まるで空が迫って落ちてきそうな錯覚に陥る。 「本当に、懐かしいですね」 「あの時から遥は成長したけど、この星空は変わんねぇなぁ」 「成長しましたか、僕」 「うん、リカコも言ってたけど、目に光が宿ったかな。死んだ魚みたいな目してたもん、最初」 「……二人ともひどいな」  僕はまたもや苦笑する。そのとき、星の一つがころころっと夜空を転がり落ちていった。 「あっ、流れ星」  僕が呟くと、 「ホント? なんか願い事した?」  と高海が訊ねてくる。 「星に願いごとなんかしませんよ」 「なんでぇ、ロマンのない奴」  茶化されたけど、僕は真面目に答える。 「流れ星は願いを叶えてくれません。願いは星にかけるものではなく、自分で叶えるものですよ」  あの夏の僕の願い事を、流れ星は叶えてくれなかった。高海とずっと一緒にいたいと願ったのに、次の春高海は他の学校に行ってしまった。  そして僕は新しい願いを持った。高海と同じ場所に立ちたい。高海と同じ景色を見たい。その願いは、自分の力で叶えたと思っている。夢を叶えるための力をくれたのは、今僕の隣にいる人。草の地面の上に寝転がって、同じ星空を眺めている人。 「僕は一つの夢を叶えましたが、もう一つ叶えたい夢があって。そればっかりは一人じゃ叶えられなくて。あなたが必要なんです」  僕は空を見上げたまま自分の手をそっと伸ばして、高海の左手をとる。僕の手は緊張で冷たくなり震えていたが、彼の温かい体温が手から伝わって、じんわり溶けるように震えはおさまった。 「ねぇ、これからずっと、僕と一緒にいてくれますか? 泣く時も、笑う時も、僕はあなたの隣がいい」  二人の間に少しの沈黙が降りる。やがて高海が、今まで聞いたことがないくらい優しい声で言った。 「当たり前だろ。一緒にいるよ。だって遥が俺のそばまできてくれたんだもん」  それ以上言葉は要らなかった。僕たちは手を繋いで、同じ星空を見上げていた。一緒の景色を見ながらともに生きていけることがこの上なく嬉しくて。この美しい夜空と手に伝わる高海のぬくもりを、僕は一生忘れないだろうと思った。春の夜のやわらかな風が、僕と高海の頬を撫でていった。  二人で車に戻りエンジンをかける前に、僕はふと気になっていたことを思い出した。 「そういえばあの年の秋くらいに、あなたがここに女の人と来ていたって噂で聞いたんですけど、彼女さんだったんですか?」  高海は首を傾げ、頭を掻く。 「えぇー? あの頃俺彼女いなかったと思うけど」 「じゃあ人違いかな」 「うーん……あっ、思い出した! そういえば幼馴染ときた気がする!」 「幼馴染って女性ですか」 「うん。婚約者に振られたっていうから慰めてたんだよ」 「その女性とは何もなかった?」 「代わりに付き合ってくれって言われたけど、そんな消去法みたいな付き合い方嫌じゃん。だから断った」 「……なんだ、そうだったんだ」  僕は全身の力が一気に抜けた。あの噂から勘違いをして色々と暴走してしまったことが馬鹿らしくなった。 「それがどうかしたのか?」 「いえ、何も……損したなって思っただけです」 「損?」 「いやでも、それがなかったら今こうはなってないか」 「なんの話だよ?」 「結果オーライってやつです」  僕は笑って車のエンジンをかけた。高海は納得してないようだけど、このことは僕の胸だけに秘めて墓場まで持って行こうと決めた。  青春って、まるで蛹の中だ。何も見えない真っ暗闇で、中では体がどろどろに溶けている。多感な時期だから、物事を大きく捉えてしまって些細なことをこの世の終わりのように感じてしまったりする。高校時代の僕がまさにそうだった。単純に親からの愛情が得られないことだけで、自分は何もかもだめなんだ、死んでしまいたいとまで思っていた。高海に出会って恋をして、でも叶わなくて、自暴自棄になったこともあった。でも、蛹の時期は大人になるための必要な過程なのだ。辛い蛹の時期を乗り越えたからこそ、蝶になって飛び立てる。  蛹の中でどろどろになって体を組み替える、その大きな変化の時期に高海に出会えたことは僕の何よりの幸運だったと思う。良いことも悪いこともあったけど、全ての出来事の重なりが奇跡なんだ。だから僕は、良いときも悪いときも高海と共にいたいと願うのだ。  かつては誰にも愛されない醜い芋虫だった僕。苦しい時期を経て蛹を脱いだ僕は、美しい蝶になれただろうか。これから飛び立つ大空は、羽化したての僕には右も左もわからないけれど、高海がそばにいてくれたなら、きっと僕は迷わない。 7a7d4c16-67e7-4196-9fa8-ac4372566a19
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