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 それから僕は、家政部でいろんなものを作った。オムレツが完璧になったあとは、炒め物、煮物、揚げ物、とできる料理をどんどん増やしていった。高海に言われた通り家で僕が食費を握ることを提案すると、意外とそれはあっさりと受け入れられた。僕は飢えることがなくなった。放課後は家政部で料理の練習をし、家に帰る前にスーパーで買い物をして、まだ簡単なものしか作れないけれど夕ご飯を家族に出すようになった。やりくりはまだ下手なのでへそくりまでは出来ないけれど。  家政部で作った料理は、なんだかんだと理由をつけて毎回高海にも食べてもらった。高海は毎回、笑顔で僕の料理を褒めてくれた。僕はその度、自分の中の何かが満たされていくのを感じた。なんだろう、僕はずっと、誰かに自分のことを見ていて欲しかったのかもしれない。本来幼児期にそれを与えてくれるはずの母親は僕のことなんて眼中になかったから。高海は僕のやったことをちゃんと見ていて、認めてくれて、褒めてくれる。子供っぽいかもしれないけれど、僕はそんなことで嬉しくなってしまうのだった。本人には絶対言わないけれど。  家政部にもだいぶ馴染んで、部員の女子に話しかけられることも多くなった。 「ねぇ、遠野くんとタカミンって仲良いよね。どういう関係なの?」  タカミンとは高海の愛称だ。生徒のことを下の名前で呼ぶ高海は、逆に生徒からも親しみを持ってあだ名で呼ばれることが多い。 「どういう関係って……担任だけど」 「そういうことを聞いてるんじゃないのよね〜!」  彼女が急に大きな声を出したので僕はびっくりした。訳もわからず混乱する。そこに里香子がやってきた。 「こら。変なこと聞かないの。……ごめんなさいね、女子ってこの手の話好きだから」 「別に、いいけど……?」  その時はそれで流したが、僕はその日の部活中その女子に言われたことを頭の中で考え続けていた。僕と高海、一体どういう関係なんだろう。高海は僕の担任、で間違い無いのだが、明らかに他の生徒より贔屓してもらっているような気がしてならない。僕の自意識過剰でなければいいのだが、何かと声をかけてくれたり僕のために動いてくれたりする気がする。実際僕が家政部に入る世話をしてくれて部費まで立て替えてくれているのだ。どうして僕なんかをこんなに気にかけてくれるんだろう。ただの受け持っているクラス三十人のうちの一人でしかないはずなのに。  僕から見た高海はどうなんだろう。僕の方も明らかに、高海に懐いてしまっている。今までこんなに担任に、というか他人に心を開いたことはなかった。最初は高海のことを陽キャだと思って関わりたくないと思ったが、その実気のいい奴で、付き合いやすい人間だった。そして、高海に僕の料理を食べてもらいたいという気持ち。僕の料理で高海が笑顔になってくれたら嬉しい。この気持ちはなんだろう。  翌日、僕は里香子と家庭科準備室の片付けをしていた。他の部員がいなくて静かだ。黙々と作業をしていたのだけれど、僕は前日から気になっていたこともあって柄にもなく自分から話題を出す。 「ねぇ、桃井さん。君は誰に料理を食べてもらいたくて作っているの」  里香子は一瞬片付けの手を止めた。しかしまた動かしながら僕の質問に答えてくれた。 「母ね。私の母、病気で寝たきりだったの。だから、介護食の研究をするために家政部に入ったのよ」  それを聞いて、僕は里香子にずっと付きっきりで料理を教えてもらっていることが途端に申し訳なくなった。 「ごめん。僕のせいで、君の勉強が出来なくて」 「いいのよ。母は少し前に亡くなってしまったから」  僕ははっと息を呑む。 「でもそれまで、病気で辛くても私の料理をいつも笑顔で食べてくれて、嬉しかったわ」  里香子は微笑んでいた。いつもはキリッとして鋭く物事の本質を捉えそうな里香子の目。しかし今、どこか遠くを見つめている彼女の瞳はとても優しく、柔らかい印象を受けた。僕はその目を見て、わかってしまった。料理って、愛だ。  病気の母に料理を通じて生きる喜びを感じてほしいという里香子の思い。それはとても美しい愛だった。では僕は? 里香子の話と並べ比べるのはおこがましいかもしれないけれど、僕にも料理を食べてほしい人がいる。高海に僕の作った料理を食べてもらいたい。この気持ちにも、愛が含まれているのだろうか──。 「どうしたの遥。顔が真っ赤になってるわよ」 「な、なななんでもない!」  僕は里香子に背を向け、片付けの手を早めた。  僕は自分の中の、今までなかった感情を自覚した。僕には縁がないと思っていた言葉──愛。いや、これは一方的なものだから恋だろうか。わからない。自分のこととはいえ、今まで全く触れたことのない部分の話だから僕にはさっぱりわからない。けれど、最近空が綺麗に見えるんだ。よく晴れた夏の空はどこまでも行けそうに高くって、青い。なんだか心が、赤い風船にでもなって高く飛んでいきそうだ。そういえばあの、自分の体の周りが緑色の水に満たされる現象も起きていない。すっかりその感覚を忘れてしまうくらいに。毎日体がすこぶる軽いし、自分でも嘘だろって思うけれど、学校に行って高海に会うのが楽しみになっている。愛か恋かはわからないけれど、とにかく人を好きになるってすごいことだな、と思った。  高海は相変わらず学級だよりを毎日書いては配布している。僕は元々それをファイリングしていたが、自分の気持ちに気づいてからは大事に読むようになった。高海が日々何を見、何を考えているのか知りたい。どういうことに、どういう気持ちになるのか、彼のことはなんでも知りたかった。  体育の授業も頑張った。元々運動は苦手な方で、実技は嫌いだったけれど、高海が教えてくれる体の動かし方をちゃんと聞いて実践してみたら案外出来るものだった。「やるじゃん、遥」そう白い歯を見せて言われようものなら、僕はその日一日機嫌が良くなってしまうのだった。  放課後は家政部で活動した。この頃はお菓子作りにも手を出していて、初めて自分でプリンを作った。甘いものは特別好きというわけではなかったが、家庭科室の机に並んで高海と一緒に食べたプリンはなんだか感動してしまうほど美味しくて、プリンが僕の好物になった。  こんなに充実した日々を、僕は生まれて初めて過ごしていた。人生って、こんなに明るくて楽しいものだったのか。みんな、こんな日々を過ごしていたからキラキラして見えたのかな。この頃の僕の日々は、まさに青春と言えた。こんな僕にも、青春って訪れるんだな。始業式のあった春にはまだ人生に絶望していて、早く死ねないかな、と思っていたけれど、なんとか今まで生きていてよかったな、と思った。  ホームルーム前のガヤガヤとした教室。今まで僕には関係ないと思って聞き流していたけれど、無意識のうちに恋愛の噂が耳に引っかかる。誰が誰に告白しただとか、キスをしただとか。普通は好きな人には自分の気持ちを伝え、両思いになりたいと思うものだろうか。僕にはまだその気は起きなかった。今はただ、「好き」という気持ちで世界が輝いている、それだけで十分だった。僕は窓の外のどこまでも高い空を見上げる。期末テストと夏休みが近づいてきていた。
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