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 期末テストの出来はまぁまぁだった。いつもと同じか、教科によっては少し良いくらい。休み前にもらう通知表をみると、体育の評価が今までより一つ上がっていた。そうして夏休みがやってきた。例年は学校という逃げ場がなくてあの家にずっといなければならないので居心地が悪い期間だけれど、今年は家政部の活動が週に三回あるだけありがたかった。  しかし高海とはなかなか会えなくなった。そもそも休み中の部活の時間が合わないのと、高海がバスケ部の合宿や他校との練習試合の引率に忙しくて。そんな中わざわざ家庭科室に来てもらうのも気が引けてしまって。僕は心にぽっかりと穴が空いたような気持ちがした。これが、寂しさというものなのだろうか。今まで一人で生きてきて、これからもそうだと覚悟していたころには感じなかった気持ち。僕の心の中にはもう高海がいるんだ、だから少し会えないだけでこんなにも物足りなくなってしまうんだ、と思った。  八月も半ばを過ぎたある日。陽が傾いて、暑さも少し和らいできた時間帯。僕はスーパーで夕飯の買い物をしていた。今晩は何にしようかな。今日は特別暑かったから、体を冷やす夏野菜がいいな。きゅうりを買って棒棒鶏なんかどうだろう、などと考えながら野菜コーナーを見回っていると、 「よっす!」  突然背後から大きな声を掛けられて僕は肩をびくりと跳ね上げた。そして頭の中で声の主を特定すると、心臓も跳ねた。 「先生……」  人懐こい笑顔で肩を叩いてきたのは高海だった。 「久しぶり! ちょっと背ぇ伸びた?」 「知りませんけど……でも最近はちゃんと食べてるから少しくらい伸びててもおかしくないかも」 「うんうん、いいことだな」 「おかげさまで」  さも偶然会いましたよ、というふうに軽い挨拶をするが、実は夏休みに入ってから僕は少し足を伸ばして、以前高海が買い物に利用すると言っていたスーパーに来るようになっていたのだ。もしかしたら会えないかなと期待して。だから偶然とは言っても自分でかなり確率を上げた偶然だったのだ。  お前んち今日何にすんの? そちらこそ、今日の献立は? などと他愛のない会話をする。そんなことにも僕は喜びを感じてしまった。久しぶりの高海の声。なんだか落ち着く。  会話の途中、ふと高海が身を屈めて僕に耳打ちをした。 「な、明日って空いてる? 夜まで」  僕は急な近くでの囁き声にびっくりして顔を赤らめる。 「空いてますけど……。晩御飯さえ作り置きしておけば親も何も言わないと思いますけど」  僕の返答に高海が破顔する。 「よかったぁ。実はさ、明日久々に俺もオフで。どこか遠くに行きたい気分なんだよ。よかったらお前も一緒にドライブ行かねぇ?」  ドライブ。高海と。もしかして、二人きりだろうか。教師が生徒をプライベートで誘うのってアリなんだろうか、と一瞬頭を過ったが、高海と一緒に過ごせるのなら僕はなんでもよかった。 「ホントはあまりよくないかもしれないんだけどさ、こういうこと。でもせっかく今日会ったし、一人でドライブってのもなんか寂しいし。ご近所さんのよしみってことでさ」 「は、はい……。じゃあ僕は明日の分まで買い物しないとな」  舞い上がってしまって、別に言わなくてもいいことを口走ってしまった気がする。気にするほどのことでもないかもしれないが、好きな人の前ってこんなに緊張するんだな。 「ありがと。じゃあ明日、十一時くらいかな。迎えにいくな」  そう言って高海はぽんぽんと僕の背中を叩くと、立ちすくむ僕を置いて歩いて行ってしまった。高海が十分に離れたのを確認して、僕は大きなため息を吐く。なんだかトントン拍子に決まってしまったけど、すごいことになっているぞ。夏休みに、好きな人にドライブに誘われるなんて。何これ青春映画ですか。本当に自分の身に起きたことだとは信じられなかった。とりあえず気持ちを落ち着かせるため肉売り場のショーケースへ歩みを進める。ええと、明日の分も買っておかなくては。すると耳元でまた声がした。高海が戻ってきていたようだ。 「学校のみんなには内緒だからな」  それだけ言うと高海はまた去っていく。僕は今度こそ顔を押さえ、しばらく立ち尽くすほかなかった。  次の日、僕はソワソワして早起きしてしまった。約束の十一時までまだまだ時間がある。なかなか進まない時計の針に焦れる気持ちを抑えるため、僕は台所に立った。両親のための夕飯の作り置きを済ませ、余った食材で二人分のお弁当も作ってしまった。保冷剤とともにトートバッグに入れる。ドライブって一体どこへ行くんだろう。肝心のそれを聞いていなかったから何を持っていけばいいのかわからない。とりあえず、汗を拭くタオルと水筒を入れていけばいいかな。そんなことを考えているうちに十一時が近づいてきて、僕は家の外に出た。  いつか乗せてもらったことのある、白い大きな車で高海はやってきた。僕のトートバッグを見て、「荷物は後ろの席に乗せな。バスケ部の荷物もあるけど」と言った。確かに、ボールがいくつも入った大きなバッグのようなものも積んであった。僕はその隣にちょこんと自分のバッグを置くと、助手席に乗り込んだ。 「今日はよろしくお願いします」 「こちらこそ。遥も乗ってるし、今日は安全運転で行くぞ〜」  いや安全運転はいつもしてください、と頭の中でツッコミつつ、確かにこの状況で事故にでも遭ったりしたらやばいなと思った。教師と生徒がプライベートでドライブ。少しの背徳感にドキドキした。  運転席と助手席の近さに、僕は落ち着かなかった。前乗せてもらった時は高海のことを何とも思っていなかったけれど、今や高海は僕の好きな人だ。近い。僕の汗の匂いとかしていないだろうか。汗拭きシートとか持ってくればよかった。制汗スプレーは一応してきたんだけど。 「そういえばさ、俺臭くねぇ?」  僕は考えていたことを当てられたようでドキッたした。 「この前リカコに汗臭いって言われてさ〜、助手席って近いから臭わないかなと思って」 「い、いえ全然大丈夫です」  高海のことを臭いだなんて思ったことがない。確かに高海の匂いってのはあるけれど、僕には好ましい匂いだ。好きだからそう思うのかもしれないけれど。 「僕の方こそ大丈夫ですか」  僕は恐る恐る聞いてみる。 「え? 全然! 遥ってさ、いつもなんかいい匂いするよな! 年頃の男子の嫌な臭いは全然しないっていうか。バスケ部の連中なんて酷いぜ〜部室なんて地獄!」  高海はハハハ、と明るく笑った。バスケ部の人たちに対してちょっとヒドいな、と思いつつ自分は大丈夫そうだったので僕は胸を撫で下ろした。 「ところで今日はどこに行くんですか」 「それはお楽しみってやつだろ。あ、高速乗るつもりだけど、昼飯どうする。サービスエリアでもいいけど」 「僕、お弁当作ってきました」 「おぉ、気が利くじゃん! じゃあ目的地で食うか〜」  サービスエリアで名物を食べるってのもよかったかな、と思ったが、最近高海に僕の料理を食べてもらってないし、お弁当を作ってきて正解だったと思いたい。  僕らはエアコンの効いた車内で、ここ最近会ってなかった間のことを話した。と言っても僕は家政部での出来事くらいしか話すことがなかったけれど。それでも高海は喜んで聞いてくれた。僕が思いのほか家政部に馴染んで、料理も頑張っていることが嬉しそうだった。高海はバスケ部の合宿のことを話してくれた。運動部って僕にとっては未知の世界で、キツそうだから絶対入りたくはないけれど、一つの競技に捧げる青春もそれはそれでいいなと思った。  一時間くらいドライブを楽しんだ頃だろうか。カーナビのアナウンスが目的地周辺であることを告げた。時間貸しの駐車場に車を停める。日焼け止めを塗るように言われ、僕は用意してなかったので高海のを借りる。高海は大きなパラソルを車のトランクから出し、脇に抱えて歩き出す。少し歩くと砂浜が見えてきた。海だ。幼い頃から海になんて連れてきてもらったことがなく、僕には初めての経験だった。風に乗ってやってくる、独特の香りに心が弾む。これが、海の匂い。 「ここからはビーサンの方がいいぜ」  高海がリュックからビーチサンダルを二足出し、片方を僕に貸してくれた。高海のサイズだから僕には少し大きかったが、自分の靴の中が砂だらけになるよりはましだった。ぎゅっぎゅっと砂を踏み固めながら波打ち際まで歩く。ザザ、と寄せては返す波の様子は、毎回同じようで毎回形が違って、見てて飽きないものだった。僕が波を眺めている間に高海がパラソルを設置してくれたようで、背後から「おーい、飯にしよう」と呼ばれ、僕は小走りで向かった。  夏休みだと言うのに、テレビで見るほど人が溢れかえってはおらず、ぽつりぽつりとパラソルを立てている人がいるだけだった。そのことを高海に問うと、「ここは穴場なんだよ。遊泳禁止だから泳ぎたいやつは来ないしな」と教えてくれた。  パラソルの下で、僕の作ったお弁当を食べた。今日の夕飯に置いてきたナスとお肉の炒め物、ポテトサラダ、ほうれん草のおひたし、そして玉子焼き。どれも高海は美味しい美味しいと言って食べてくれた。久しぶりの感覚に僕は自然と笑みが溢れた。 「玉子焼き、すごく綺麗に巻けてるじゃん。最初はオムレツでさえあんなに苦労してたのにな」 「桃井さんに鍛えられてますから」 「あ〜リカコな。厳しそうだもんな、あいつ」 「でもおかげで、料理の腕はそこそこ上がってきたと思いますよ」 「うん、マジで美味い! このナスも、ポテトサラダも」 「……ありがとうございます」  僕は高海が家政部に入れてくれたことや今まで世話になったことを思い出し、万感の思いを込めて言ったつもりだったが、高海は単に褒め言葉に対するお礼だと受け取ったみたいだった。まぁいいんだけど、それで。  お弁当を食べ終えパラソルの下で少しお腹を落ち着けたあと、折角だから少し海に入ろうということで波打ち際まで行った。透明な波が足元まで寄せてきたかと思えば、引き波で砂粒を攫っていく。僕はサンダルを脱いで、恐る恐る海水に足を浸けてみた。ひんやりと冷たくて気持ちいい。僕が初めての海に夢中になっていると、突然バシャン、と音がして服が濡れた。高海が僕に向かって水を掛けてきたのだ。 「何するんですか……!」 「お約束だろ、海と言えばさ!」  そうしてまた僕に向かって水飛沫を上げる。避けようとしたもののまた服に海水がかかってしまった。僕は悔しくて、屈んで高海に水を掛ける。上手く飛沫が上がらなかったけれど、目にクリティカルヒットしたようだった。 「うおっ、やったなぁ!」  それからは水かけ大会。いい大人と男子高校生が一体何やってんだか、って感じだけれど、これがなかなかどうして楽しかった。童心に返ったような、とはよく言うが、僕は幼い頃にこんな遊びをしたことも、こんなに笑ったこともなかった。けれど初めてこんなにはしゃいで、こういうのもなかなか悪くないな、と思った。  調子に乗って水を掛け合っていたら服がびしょ濡れになってしまった。濡れた服をパラソルの上に乾かし、高海が持ってきていた着替えのTシャツに着替える。もちろんオーバーサイズだが仕方ない。僕は太陽の下で柄にもなくはしゃいだので、疲れてうとうとしていた。 「少し寝るか?」  高海の言葉に甘えて、僕は十分だけ、と言って横になった。目を瞑っても感じる潮風と波の音がとても心地よかった。  ふ、と目が覚めたとき、僕はなぜ自分がここにいるのかわからなくて混乱し、記憶を手繰り寄せるのに必死になっていた。そんな僕を見て高海が笑う。 「おはよ」  そうだ、高海とドライブをして海まで来たんだった。それで疲れて眠ってしまって……。 「僕、どのくらい眠ってましたか」 「んー、二時間」 「二時間!?」  辺りを見渡すと、もうサンセットに近い空模様になっていた。 「どうして起こしてくれなかったんですか……!」 「すまんすまん、あんまり気持ちよさそうに寝てたもんで。成長期だし眠いのは仕方ねぇよ」  二時間も、高海は一人で何をしていたんだろう。気になって訊いてみると、 「え、何も。強いて言うなら遥の寝顔見てた」 「は……!?」  僕は無防備な寝顔を高海に見られていたことがとても恥ずかしくなった。顔が熱い。きっと首まで赤くなってるに違いない。ていうか二時間も何もせずにいられるってすごいな。寝てた僕が言うことじゃないけど。  太陽の光っていうのは意外と体力を奪うものなんだと、僕は初めて知った。今まで夏の日に外で遊んだことなんてなかったので。それにしても、折角高海と一緒に過ごせるというのに二時間も寝て無駄にしてしまったなんて、一生の不覚だ。僕が落ち込んでいると、 「まぁまぁ。本当はスポーツアミューズメントにでも行って俺のバスケの腕前でも見せてやろうかと思ってたけど、海で見る夕陽綺麗じゃん。結果オーライってやつだぜ」  ニカッと笑った高海の白い歯に夕陽が反射してキラッと光った。  確かに高海の言う通り、夕陽はとても綺麗だった。視界いっぱいの広い広い空は夜の青と夕のオレンジ色が混ざり合い、黄色い陽の光が海に反射してキラキラと輝いている。その光景はとても幻想的で、この世のものとは思えないほどだった。そう口に出して言うと、「ただの夕陽だ」と高海に笑われたが。でも今日は僕にとっていっとう特別な、素晴らしい日だったから僕はそう感じたんだ。きっと一生忘れない。  近くのファミリーレストランで軽い夕食を済ませ、僕らは再び車に乗った。辺りは暗くなりはじめている。楽しかった今日も、もう終わりなのか。名残惜しい気分になった。まぁ僕らの町に帰るまでまだしばらくドライブは続くけれど。  帰りの車の中でもまた眠気が襲ってきたが、僕は今度こそ寝ないように努めた。高海と一緒の時間をもっと過ごしたい。明日からまたしばらく会えなくなるかもしれないから。眠くならないように僕にしては一生懸命話していると、見慣れないところで車が停まった。あれ、家に帰るんじゃなかったのか。いったいここはどこだろう。なんだか小高い丘のふもとのようなところに思えた。 「まだ帰りたくないから少しだけ寄り道」  高海が白い歯を見せて微笑んだ。彼もまだ帰りたくないと思ってくれていることが嬉しかった。  丸太を半分地面に埋め階段のようにしている丘への小道を、高海と連れ立って歩く。頂上に着いたところで、高海が「空、見てみな」と僕に促してくる。それに従って空を見上げると、そこには満天の星が輝いていた。 「うわぁ、すごい」  僕は思わず歓声を上げる。大小さまざまな星が視界いっぱいに広がった。大きな星は一際明るく輝き、普段は見えないような小さな星までたくさん見える。まるで空が落ちてきそうだ、と感じた。 「ここは星が綺麗に見えるスポットとして有名なんだよ」  何もない丘の上で、僕らは地面に腰を下ろしていた。お互いの背中を拠り所として星空を眺める。好きな人の背中。高海の体温と、ゆっくりとした鼓動が伝わってきて、僕のそれも高海に伝わっているんだろうな、と思うと心臓がドキドキしてしまって焦った。 「今日は付き合ってくれてありがとな。楽しかった」 「こちらこそありがとうございました。……途中寝てしまってすみません」  僕が苦々しく懺悔すると高海はハハハッと明るく笑い飛ばした。 「いーよ、普段見られない寝顔見れたし。年相応って感じしたぜ」 「どういう意味ですか、それ……」  普段高海には僕がどう見えているんだろうか。色々考えてしまう。  言葉が途切れると、「星綺麗だな」「そうですね」という会話になって、またポツリポツリと話しだす。そんなやりとりを何度か繰り返して、僕は今までなかなか訊けなかったことを思い切って訊いてみた。 「あの。先生はどうして僕なんかをこんなに気にかけてくれるんですか」  高海は頬を掻いてうーんと考える素振りを見せたあと、 「なんだか、寂しそうだと思ったからかな」  と言った。 「同情ですか」 「うん、そう。ぶっちゃけるとそう」  高海は悪戯っぽく笑った。  同情。他人の苦悩を、かわいそうに思うこと。あわれみ。僕は自分の頭の中の辞書を引く。少し前のひねくれた僕なら、そんな感情いらない、馬鹿にするなと突っぱねたであろう。しかし辞書にはこうも続く──他人の気持ちに、自分のことのように親身になること。思いやり。高海の気持ちからは、僕は優しさしか感じなかった。  家庭環境が家庭環境だから、僕は同情ならいっぱいされてきた。でもそれは、「自分はお前のように可哀想ではない」という優越感とセットで、しかも同情するだけで「自分は優しい人間だ」と思えるのか彼らは満足して、僕に何かをしてくれるということはなかった。しかし高海は違う。僕のことを可哀想だと思ったとしても決して僕を見下すことなく、義父に立ち向かったりと勇気のある行動も起こしてくれた。普通は出来ないことだ。  人間誰しも、自分より下の人間を見ると無意識に安心してしまう。そのあとは見ないふり。だけど高海は見ないふりをせず、下にいる僕の手を引いてくれた。そこから這い上がってこいと。だから僕は、高海に惹かれたのかもしれない。  そんなことを考えて黙り込んだ僕に、高海は声を掛ける。 「おーい、怒った?」  僕は高海の戯けた口調に乗って、「怒りました」と返す。 「……でも、ありがとうございます」  僕は再び空を見上げる。しゅっ、と尾を引いて、星がひとつ流れ落ちた。 「あっ」 「ん、どうした?」  僕だけに見えた流れ星。僕はそれに「これからも高海のそばにいられますように」と願いをかけた。
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