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 高海と一緒にドライブにいった夢のような一日のあと、僕らはまた時間が合わずに会えなくなった。でもそんな日々も今日で終わり。明日からは新学期だ。担任の高海に確実に会える。僕はそれを心待ちにしていた。  夜の自室。部屋の片隅には学校に行く準備を終えたカバンと、その横に紙袋がちょこんと置いてある。海で濡れてしまった服の代わりに高海に借りたTシャツが入っていた。会ったら返そうと思って。僕はそれをもう一度取り出し、広げてみる。洗濯したのでうちの洗剤の匂いが付いているが、鼻を近づけて嗅いでみると洗剤の香りの奥の方に微かに高海の匂いがする気がした。その空気を肺いっぱいに吸い込むと、胸の奥からなんとも言えない気持ちが湧いてくる。  僕はおもむろに自分の股間に手を伸ばした。ズボン越しだけれど、少し硬くなっているのを感じる。今までこんなことはなかったのに、高海の匂いを自分の部屋で嗅いで、変な気持ちになっている。だめだ、こんなことをしては。警鐘を鳴らす理性に反して、僕の右手は股間を勝手に弄び、その感触に僕はうっとりと目を細めてしまう。  そもそも僕は性欲というものが薄いのか、あまり自慰行為を頻繁にするたちではなかった。というより、同世代の若い男が好きだという女体や性にまつわることについて、あまり興味が持てなかったのだ。だらしない僕の母はよく裸で家の中をうろつきまわったし、セックスに至っては流石に直接目撃したことこそないものの、僕に気を遣わない両親のせいで声はよく聞こえていたので気持ち悪いと思っていた。だからそのような映像を見て自慰をする男の気持ちがわからないのだ。それでも若い体に溜まる老廃物を排泄するために、義務のようにやるくらいで、それも仕方なくだった。だから僕には「何かを見たり聴いたりしてムラムラする」という感情は今までなかったし、いわゆる「オカズ」という概念もなかった。  それが今はどうだ。僕は明らかに、高海のTシャツをオカズに自慰をしようとしている。人のモノ、それに残る僅かな香りに僅かな香りに欲情するなんて僕は変態なのではないかと戸惑った。しかし右手の動きは止まらない。僕は部屋着のズボンとパンツを脱ぎ捨てた。左手に持った高海のTシャツに顔を埋める。目を瞑り、僕に覆い被さってくる高海を脳裏に思い浮かべていた。どんどん息が上がってくる。初めてだ、マスターベーションでこんなに興奮するの。  無我夢中の時間はあっという間に終わった。上り詰めて射精したあとは、冷めた頭でティッシュで処理した。やってしまった。どうしよう。明日からどんな顔をして高海に会えばいいんだ。そんな考えが浮かんできたが、射精後特有の倦怠感に負けてしまい、ベッドに横になるとすぐに眠りに落ちてしまった。  僕は高海のことが「そういう意味で好き」なのだということに気がついた。通学の電車の中で吊り革に掴まりながら考える。最初は単純な「好き」で、高海のことを思っていられるだけで幸せだったけれど、欲が出てきたのかもしれない。今の僕は、高海に愛されたいと思っている。抱いてほしいと思っている。そう、昨日のことで気付かされた。そしてあわよくば、彼を独り占めしたいとも。クラスメイトに、高海の教師としての愛が平等に分けられていることがなんだか切なかった。僕のことだけ見ていてほしい。  昨日の今日で高海に会ったらどんな気持ちになるだろうと少し不安に思っていたが、高海がいつも通りに明るく挨拶をしてきたので僕もいつもの調子で接することができた。朝のショートホームルームのあと、高海にTシャツの入った紙袋を渡しにいく。高海は「おー、そうだった」とTシャツの存在を今思い出したようだった。 「その節はありがとうございました」 「楽しかったな。でもみんなには内緒だぞ。二人だけの秘密だからな」  そう言って高海は白い歯を見せてニカッと笑った。  あの日のことは、二人だけの秘密。二人だけの特別な思い出。そう改めて考えると僕は心の中にキラキラ光る宝石を大切にしまっているような気持ちになった。幸福感にふわふわと心が飛んでいきそうだ。  この時の僕は幸せの絶頂にいた。何一つ想いは伝えていないけれど、好きな人とともに過ごせて、夏休みには素敵な思い出もできて。そしてこれからもそれが続くと思っていた。数ヶ月前は絶望という名の水の中で溺れていたことをすっかり忘れてしまうくらい、幸せだったんだ──あの噂を聞くまでは。
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