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 季節は移ろい、日々澄んでいく空ともう暑いとは言えない気温に秋の深まりを感じる頃のことだった。僕は何事もなく毎日学校に通い、寝ずにきちんと授業を受け、いつでも高海を見つめ時折話し、放課後は家政部で活動するという日常を送っていた。その日も放課のチャイムの後、カバンの整理をしていつも通り家庭科室に向かう準備を整えていた。カバンを持ち上げ自分の机から立ち上がろうとしたとき、隣の席から「タカミンがさ……」という言葉が聞こえてふと動きを止める。女子二人組が高海の噂をしているようだった。僕はその気はなかったがつい聞き耳を立ててしまう。 「そういえば私、週末タカミンに会ったよ」 「えー、いいな。どこで?」 「家族で星の丘に星を見に行ったんだけど、そこで。女の人と一緒にいて、彼女かなって思った」  一瞬キン、と耳鳴りがして、すべてのものが遠くなった感覚がした。やがて動悸がしてくる。僕はわかりやすくショックを受けていた。  星の丘って、夏休みに連れていってもらったところだろうか。いや、そうとしか考えられない。しかも、女の人と一緒にいた? 彼女だと思われるくらい、親しい様子だった───?  あの日のことは、二人だけの秘密で、二人だけの思い出なのではなかったか。高海が言ったのはそういう意味ではないと頭ではわかっている。けれど僕の心はどうしてもショックを隠せないのであった。  高海は僕のものなのに。僕には高海しかいないのに。高海が僕にしてくれた色々なことが頭の中に蘇る。あんなに僕にだけ、よくしてくれたじゃないか。僕は高海の、少なくとも生徒の中では特別だと思っていた。けれど女の人には勝てる気がしなかった。恋人、なのだろうか。しかも星を見たということは夜。その後、セックスをしたのだろうか。僕の知らぬ女の人と。ああ、なんて汚らわしい。僕は高海をオカズにマスターベーションをしたことを棚に上げていた。  気がつくと、僕の周りにはみるみる緑色の液体が溜まっていっていた。久しぶりの感覚だ。僕の体を、絶望が覆っていく。僕はそれを振り払うように勢いよく立ち上がった。  僕の足は家政部には向かわなかった。初めて部活をさぼった。学校を飛び出して、当てもなくただひたすら歩いた。僕の体を包み込もうとする緑色に追いつかれないように、とにかく足を止めないように。どこへ向かっているかは自分でもわからなかった。  はっと我に返ると、周りの景色は一変していた。来た事がない場所だけれど、繁華街のような場所だということはわかった。仕事帰りの人々が忙しなく行き交う。学校の隣駅の前まで来てしまったんだろうな、と僕は判断する。目の前には、ご休憩、ご宿泊いくらとでかでかと書いた看板があった。これってそういうホテルだよな、とぼーっと考えながら立ち尽くしていると、不意に声を掛けられた。「やぁ、一緒に入る?」知らない人だった。スーツを着た、一見普通のおじさん。僕は彼が何を言っているかわからなくて返事もせずに見つめ返していたが、「君、可愛いね。おじさんといいことしよう?」と薄笑いを浮かべた顔で言われて、あ、誘われてるんだな、と気づいた。そんな風に誘われるのは初めてだったので一瞬ぞわっと心臓が跳ね上がったが、すぐに思い直して、それもいいかもしれないと思った。今のこのどろどろとした気持ちを忘れさせてくれるならなんでもいい。緑色の液体から逃げられさえすれば。だってあれに捕まると、とてつもなく苦しいんだ。馴れ馴れしく背中に手を添えてくるおじさんの誘導にしたがって、僕はそのホテルの中に足を踏み入れたのだった。  勢いでホテルに入ってしまった。僕はダブルベッドの端に腰掛け、おじさんが浴びているシャワーの音を聴きながら僕は不思議な心地になっていた。これから僕はどうなってしまうのだろう。今朝家を出たときには、まさか今日自分がこんなことになるとは思っていなかった。逃げたくても、ここは部屋についている精算機で精算しないと外に出られない仕組みになっていた。もちろんそんなお金、僕にはない。  シャワーの音が止み、代わりにおじさんが身支度をする音が聞こえてきた。ドキドキしすぎて頭がクラクラしてきた。おじさんが部屋に戻ってきて、僕に近づいてくる。呼吸が浅くなってきて、なんだか苦しい。「大丈夫だよ、そんなに緊張しないで」おじさんが僕の顎の下に手を添え、キスをしてこようとする。僕が口を開けずに拒む意思を見せると、「キスはだめなんだね」と引き下がってくれた。物分かりのいいおじさんで助かった。できればそれ以上のこともしたくはないが、ここまできてそれは許されないだろうな、と思った。僕は腹を括る。  おじさんが僕を脱がしにかかる。生暖かい手が僕の体に触れる。普段人に触れられることのない場所。おじさんが触れたところからぞわぞわと鳥肌がたった。やがてすべての服が脱がされ、僕は生まれたままの姿になった。なんだか薄寒くて落ち着かない。おじさんも着ていたバスローブの前を開く。すでにペニスが勃起していた。自分に対する欲を見せつけられているようで、本能が拒否をした。気持ちわるい。  ベッドに押し倒される。おじさんがどんどん近づいてくる。気持ちわるい、気持ちわるい。不快な感情が増していく。でも逃げられない。どうしたらいい? 誰か、助けに来てくれないかな。誰か──……。高海の顔が一瞬浮かんだが、僕は頭の中でかぶりを振る。だめだ、高海には女の人がいるし、僕なんかを助けに来てくれる訳がない。第一こんなところを見られてしまったらおしまいだ。  おじさんの手が僕の胸に触れる。もうだめだ、とすべてを諦めたそのとき、部屋のドアがどんどんと叩かれた。僕の上のおじさんがびくり、と反応する。 「警察です。高校生を連れ込んでいるという目撃情報で来ました」  おじさんは大きなため息を吐くと、観念したようにドアに向かっていった。僕は逃げるようにシーツに包まる。  ガチャ、とドアが開く。そこには制服を着た警察官と、ホテルのスタッフらしき人と、今一番顔を合わせたくない人──高海がいた。 「同意の上ですよ、お巡りさん」おじさんが言う。余計なことを言うな、高海の前で。「同意でも高校生はアウトです」お巡りさんが答える。やがて大人たちが部屋の中に入ってくる。「大丈夫かい、君」お巡りさんの声が頭上から落ちてくる。僕はシーツの中に隠れて震えていたが、先程のおじさんのように観念して顔を出すしかなかった。僕の顔を見て声を上げた大人はもちろん高海だった。 「──え? 遥、なんでお前がここにいるんだよ!」  高海があげた大きな声は驚きだろうか、怒りだろうか。僕にはうまく判断ができなかった。  どうやら僕とおじさんがホテルに入ったところを誰かに目撃され、僕の制服から学校が特定されて連絡されたようだった。学校は警察に通報し、生活指導係も務めている高海がついてきた、というわけらしかった。  おじさんは警察の人に連れていかれ、部屋には僕と高海が残された。とても気まずい空気が流れる。 「とりあえず、服着な。帰ろう」 高海が沈黙を破った。帰るって、どこへ? 学校だろうか、家だろうか。もはや僕の居場所はそれらにあるんだろうか。そんなことを思いつつ、僕は大人しく高海の言うことに従った。  ホテルから出て少し歩き、時間貸しのパーキングに止めてあった高海の車に乗せられた。高海は運転席に座っても車を出そうとはしない。そのまま話しはじめた。怒られるかと思ったが、意外にも優しい声だ。 「ごめん、驚きすぎて心配するの忘れてた。そういえば、大丈夫か。その、どこまで……」 「……キスされそうになったし脱がされて体触られましたがそれ以上のことは何も」  僕は諦めの境地にいた。高海の問いかけに事務的に答える。高海はそうか、と返事をした。 「なんでお前がこの街にいたか知らないけど……きっと強引に誘われたんだよな」  高海はそう信じたいのだろう。しかし僕はそれを否定する。 「別に強引じゃありませんよ。同意の上と言っていたのも嘘じゃありません」 「なんで……ていうか、今日家政部あっただろ」  家政部なんか、今更馬鹿馬鹿しく思えた。なんでって言われても。あなたのせいですよ。あなたが女の人と、僕たち二人の秘密の場所に行ったっていうから。ねぇ、あなたにとって僕はなんなんですか。  僕が黙っていると、高海が言った。 「学校には勘違いの連絡だったって言っとく。このままうちへ送るよ」  車がゆっくりと発進する。無言のドライブ。夏休みの時は、あんなに楽しかったのに。僕はハンドルを握る高海の手を横目に見ながら、この手が女を抱いたのか、という考えに沈んでいた。その手が触れるのが、僕だったらよかったのに。でもそんなことはありえない。男同士だし、万一そこをクリアしたとしても教師と生徒だ。いや、そもそも彼女がいるんだっけ。あはは、なんだこれ。僕の望みが叶うことなんて絶対にないじゃないか。  車の中は緑色の液体でいっぱいだった。呼吸ができない。隣の高海は大丈夫なのかな、普通に運転してるけど。こんなに苦しいのに、高海は何も気づかない。僕の気持ちに気づかない。水の中だから声を上げることもできない。口を開いても、泡になって消えていくだけ。なんだかそんな童話があったような。人魚姫だっけ。どんな内容だったかいまいち思い出せないけれど。  思考がとりとめもなくなってきた頃、車は僕のアパートの前に到着した。ドアを開けると、緑色の水がザバーッと溢れて出ていった。僕は不思議なほど素面に戻った。なんだか今日の今までのことが夢みたいだった。 「明日絶対学校に来いよ。お互い頭を冷やして、ちゃんと話そう」  そう言うと高海は車を方向転換させ去っていった。僕は呆然とその場に立ち尽くし、白い車が小さくなって見えなくなるまで見つめていた。
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