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 次の日、僕はいつも通り学校に行った。高海の言うことを素直に聞いたわけじゃないけれど、僕にはそれしかできなかったからだ。家には僕の居場所はないし。  放課後、高海に捕まって進路指導室へと連れていかれた。皮張りのソファに、テーブルを挟んで向かい合って座る。テーブルの上には花瓶が置いてあった。  気まずい沈黙をまず破ったのは高海だった。 「お前……何か悩みでもあるのか」  およそ彼に似合わない、神妙な面持ちで問われる。無難な、ありきたりな質問。それ以上でもそれ以下でもなかった。 「別に、悩みなんてありませんけど」 「じゃあなんであんなことしたんだ? お前、そんな奴じゃなかっただろ」  たった数ヶ月、今年の春から担任になっただけの奴が僕の何を知っているんだ、と少し噛みつきたい気持ちになった。 「こんなことは初めてだよな?」 「さぁね、どうでしょう」  高海への反発心から僕は心にもないことを言ってしまう。 「俺はお前がそんな奴じゃないって信じてる。一学期も、夏休みだって変な様子はなかったし。最近、何かあったのか」  高海の目が真っ直ぐに僕を見据える。こんな僕のことを「信じてる」と言えるなんて、本当に模範的な教師だと思う。そう、高海の僕を思う気持ちは、どこまでいっても教師が自分の生徒を思うそれだった。僕が高海を思う気持ちは違う。教師と生徒の線引きを超えている。踏み越えてやりたい。僕より高みで後光を放っている、模範的で理想的な教師の像を、この手で引きずり下ろしてやりたい。 「別に、何もありませんよ。先生もどうですか……ああ、でも生徒に手を出すことなんてできないか。教師ですもんね」  高海の眉がピクリと歪むのが分かった。 「何言ってんだお前」  その声には静かな怒気が秘められていた。僕は追撃する。 「僕を抱いてみませんかって言ってるんです」 「お前、どういうつもり……」 「昨日は邪魔されてしまったことですし。昨日のおじさんは、ホテルの前で立ってた僕に可愛いねって声かけてきたんですよね。結構具合も良かったみたいで、僕。先生も試してみませんか」 「お前いい加減にしろよ!」  今度こそ理想の教師の皮が剥がれた。その怒声はわなわなと震えている。僕はその目にぞくぞくした。 「……冗談ですよ。なに本気にしてるんですか。おじさんとは何もありませんでした」  僕は口の端を歪めて笑った。高海は少し安心したように言う。 「お前、冗談でもそんなこと言うんじゃねえよ」  呆れたように笑う仕草からは、全て僕の悪い冗談ということにしていつもの調子に戻したいんだろう、ということが伝わってきたけれど、僕は今までの関係には戻れない、戻りたくないとその時思ってしまった。その感情が、僕の口から本音を溢れさせてしまった。 「……でも、先生に抱いて欲しいのは本当です。僕はあなたが好きなんだ」  高海が硬直するのが分かる。どんな顔をしているのだろう、それを確認する勇気はなかった。 「あなたのせいですよ……あなたが、僕に優しくするから。僕が優しさも何も知らなければ、こんなに苦しくなかったのに」  高海が何か言う前に僕は立ち上がった。そのままドアに向かい、進路指導室を出る。高海は追いかけてこなかった。僕は涙が溢れてしまわないように、廊下を歩く足を早めた。
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