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次の日、私はバッキンガム宮殿やその周辺を散策した。荘厳なる雰囲気は言うまでもなく、圧倒されたが、そのときの私にはどうもパンチが足りないような感じがした。もしもバッキンガム宮殿が黒色だったら、と想像してみた。そして私が女王様であの黒い屋敷の執事を携え執務をしていたとしたら、と妄想を膨らませていくともっと素敵になるような感じがした。頭の中にまだあの黒いお屋敷を見たときの感動がこびりついているのかもしれない。
昨日描いてもらった地図があるので行こうと思えば行けるのだが、あの執事ににべもなく断られたばかりという手前、訪問するのは憚られた。訪問するにはせめて何か理由が欲しいところだった。
ホテルへ帰るとき、私は昨日迷ったことを反省しタクシーを捕まえた。
タクシーの窓を開けて歴史ある街並みを流し見ていると目が痒くなって私は思わず目をこすった。すると陽気なドライバーが笑って言った。
「チンクの姉ちゃんでも目にゴミが入るんだな」
『チンク』という単語が目の細い中国人に対する侮蔑語だとは知っていたし、中国人と区別のつきにくい他のアジア人に対しても使われたりすることも知っていた。しかし私は文句を言ったりはしなかった。お嬢様は些細なことで怒ったりはしないのだ。
それよりも、ある閃きが私の頭の中を満たしていた。
あの時、執事はいきなり日本語で話しかけてきたのを思い出した。「どうして日本人だと分かったのか気になったから教えてください」と聞きに行くのは再びお屋敷に行く口実にはならないだろうか。
私は急遽目的地をグリニッジに変更してもらった。そして降りるときにドライバーの手を取りサンキューと言い、二十ポンドも余計に支払った。
ドライバーはぽかんとしていた。
黒いお屋敷は晴天の光の中においても凛とした佇まいで私を待ってくれていた。そして再び現れた私を執事は昨日と同じように出迎えた。
「ピースサインをして写真を撮られていたからですよ。この屋敷が建てられた当初、インターネットでここが紹介されて多くの方が見物にお見えになられました。ピースサインで写真を撮るアジア系の人たちに日本の方が多かったから、そうじゃないかと思っただけです」
私の質問に彼はそう回答した。
あっという間に用件が済んでしまったが、私はまだお屋敷の前から離れたくはなかったので、次々と質問を投げつけて時間を稼いだ。どうして日本語が話せんるですか、一人で暮らしているんですか、家主はどんな人なんですか、素敵なお嬢様なんですね。矢継ぎ早に言葉を紡ぎながら横目でお屋敷を観察した。
話題が家主のことに移ったとき、執事は初めて笑顔を見せた。
「ええ。それはもう、素敵な方なのです」
私は思わず顔をそむけた。
十分ほどで帰路に就いた。屋敷の中を見せてもらうことは今日も叶わなかったのだが、私は十分満足していた。
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