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深海
辞めてしまおうと思った。
この苦しみから解放されたくて、足掻き続け、もがいたけれど、それは実をつけることなく散ろうとしている。窓から見える木々も同じで、葉のひとつもつけていない枯れた枝をぶらさげているだけだ。
私はきっとそんな枝にしがみつくことさえできなかった、落ちこぼれなのだろう。
「お母さんが守ってあげるから」
「うん」
車の中の無言を先に破ったのは母だった。
泣きそうに震えている私の心中を察したのか、母らしく堂々とかまえてみせた。
今向かっているのは私が勤めている職場だ。
なぜ親と向かっているのかと言うと、私が心細いからである。
1週間ほど前に、私は職場にしばらく休むという連絡を入れた。社会人としてあるまじき行為だが、御局様いじめの標的にされ、精神的にも参っていたため、このままフェードアウトを狙っていた矢先に鳴った電話だった。
「話があるから」
局長からの電話の要件はそれだけで、私としても向こうから解雇してくれるのであれば万々歳だと言うのに、顔を見て話すとなると、怖くてたまらなかった。
「軽いノイローゼと不眠症だね」
御局様いじめの標的にされたのが入って数ヶ月後。半年くらいは耐えたが、私の心はどんどん擦り切れていった。
休む前まで15時間労働をしていたため、眠れない日が続き、腹痛やイライラなど、からだに異常が現れていて、耐えきれず心療内科を受診した。そのとき、様々な症状に名前がついたことになにより安堵した。心療内科の先生にもゆっくり治療をしましょう、と言われ、通おうと決めた。
歯科医院が閉まった時間に合うように、母と中に入る。すると受付の元同僚に待つように言われ、数分待ってから会議室に通された。
退職届と診断書が握りしめられている手はふるふると震えていた。
受付の辺りで私をいじめていた御局様たちがヒソヒソと何かを話している。
こわい。怖いこわい。
会議室に入ると、局長、副院長、母、私の4人で話すことになった。
「……それで?」
口を開いたのは副院長だった。
「話っていうのはなあに?」
「えっ……話?」
「話があるから来たんじゃないの?」
これが全貌だ。
この歯科医院は「報連相」もうまくいっていないし、ありもしないことが飛び交い、そして存在するものもなかったことにされる。
話があるって言ったのはそっちだ、などと入社して1年も経っていない私が言えるはずもなかった。
「診断書と……退職届です」
「……」
副院長は1行を、1文字を、じっくり舐めるように読んだ。そのあと、なぜ辞めるのか聞かれ、私ははっきりと名出しでいじめの事実があることを訴えた。
怖いけど、今はなんとか――
「そんなことないと思うけど」
「え……?」
副院長はあっからかんとして続けた。
「高原さん、みんなからかわいがられているじゃない」
「そんなことはっ……」
「いじめはありません」
私はやはり圧に耐えきれずに握りしめている手に視線を落とした。
隣に座っている母も、さすがの副院長の言葉に口を開けないでいる。
しばらくの数分の無言のあと、それを壊したのは母だった。
「この子がいじめを味わったというのに、なかったことにするんですか?」
「嘘をついているかもしれないでしょう」
泣きたかった。
もみ消そうとしていることは、確実に私が被ったものだ。けれど、この人たちはそれを認めない。世間体が大事で、スタッフを守ろうとする気遣いは一切ない。
「……辞めるのね?」
「はい……」
私と母は立ち上がり、再び副院長と局長に続いて医院のロビーまでやってきた。
御局様たちが「辞めるの?」と笑顔で聞いてくる。その笑顔の裏に何があるのかなんて、顔にそもそも書いてある。いなくなれ、邪魔だ、そう言わんばかりの顔で、追い出そうとしている。
悔しくて仕方がなかったが、もう終わったことだ。
私も、「清々する」といった顔つきで会釈をしてその場をあとにした。
母は車の中で悔しそうにしている。
家まで車で5分の距離が、とても重い。
「あんなに威圧感ある人なのね。なめてた」
「だから言ったじゃん、やばい人って」
「うん、でもこれで終わり。よく頑張ったよ」
母は偉大だ。
2010年2月。私の人生初めての社会人としての労働は幕を閉じた。
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