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「お兄ちゃん呼んで」
母が夕飯ができたと忙しそうに告げる。
「はーい」
素直に私は返事をして二階に上がり兄の部屋のドアの前で「お兄ちゃん、ご飯だってさー」と一言かけて階段を降りる。
テーブルについた私に「お兄ちゃんは?」と尋ねる母に「後でいいって」と答える。
「ほんとにもう! 二人で食べましょ! パパも遅くなるみたいだし」
特に会話もなく黙々と食べる。今日のメニューは兄の好きな煮込みハンバーグだ。こってりとしたソースは硬めでハンバーグに乗ったまま垂れることはない。私はもっとサラっと流れるようなスープ状のソースのほうが好きだけど、何も言わず完食する。
「ごちそうさま。宿題やってるね」
「う、うん」
ぼんやりした母は空を見ながら生返事をする。いつものことなので気にせず食器を下げて二階に上がった。
兄の部屋の前を通り過ぎ、隣の自分の部屋に入る。外はもう真っ暗なので、街灯に照らされた小さな交差点がよく見える。その街灯の下にはたくさんの花束が置かれている。
先月、そこで交通事故があった。ちょうど街灯がつくかつかないかのうすぼんやりした夕方、高校生がバイクと接触した。高校生は即死。成績もよく優しくて人気者だった彼の死を誰もが惜しんだ。
「あ、いる……」
死んだ高校生がこちらのほうを見て笑顔で手を振ってくる。私も手を振り返す。
「お兄ちゃん、わかってないのかなあ。それとも心配でいるのかなあ」
兄の死で半狂乱になった母は少し入院し、退院してから何事もなかったように日々を過ごす。母は毎日、兄のために夕飯を作り、私は呼びに行く。父はいつも帰りが遅く、母の様子を見て見ぬふりをしている。
一度、兄は死んだんだと母に告げると大笑いされた。また半狂乱になったところを見るのが辛くて私も母に付き合っている。そして部屋に帰ってきて夜、兄を窓の外から見る。
「いつまでこうなのかな」
手を振る兄を見ていると、なにやら口が動いていることに気づいた。
「何か言ってる?」
なぜかこの窓からしか兄は見えない。怖かったが兄が見えた時、交差点に行ってみたが誰もいなかった。
「なんだろ。もっとゆっくり、言って。え、かあさん?って言ってるの?」
兄は手をこまねきながらかあさんと言っている気がする。
「かあさんを呼べって? まったくみんな……自分で呼んでよ」
あきれたような気持になったが、なんだか涙が出てきた。私は両手で丸をつくり、待っててと合図した。伝わったのか兄はにっこり微笑んでいた。
食器にラップをかけている母に「お母さん。お兄ちゃんが呼んでる」と言うとハッとしたような顔をして私の顔をまじまじと見る。
「早く来て。あたしの部屋に」
「あんたの部屋に?」
不思議そうな顔をしながらも母はついてくる。部屋に入れ、窓際に立たせる。
「そこ。街灯んとこ」
「え? 街灯?」
表情が曇るが、私の指先を見る。母に見えるだろうか手を振る兄が。
「あ、あああっ!」
「お母さん見える? お兄ちゃんのこと」
母は窓にべったりくっついて食い入るように兄を見つめる。しばらく時間が止まったようだった。兄は優しい顔を見せたままやがて消えた。消えた後も母は窓にしばらくくっ付いていたので、私は風呂に入ることにした。
次の日から母は兄を呼べと言わなくなった。その代わり少しのおかずを「お兄ちゃんに供えて」と小皿を渡す。
兄も姿を見せなくなった。死んだときはもちろんショックだったけど、現実感がなくて悲しい感覚がマヒしていた。だけど現れなくなったと思うと寂しくて悲しくなってくる。
「お兄ちゃん……」
お兄ちゃん、私が呼んでももう来てくれないのかな。
終
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