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――十一歳の私を呼んでちょうだい。
祖母は弱くなって優しくなった声でそう言った。私を怒鳴りつけていた頃の迫力はもうない。
――小学校五年?
――いいえ、十一歳。
――だからね、おばあちゃん。十一歳といっても小学校の五年かもしれない、六年かもしれない。私はどちらの教室に行けばいいのか知りもせずに校門を抜けるとするとそれはスリッパ忘れるハンデ戦です。
――…………。
――じゃ、六年生。
祖母が私との言い争いから先に降りてしまう。私は一人、魅力のなくなった降車ボタンを慰めることも出来なくって悲しい。
――何組だったの?
病室に窓から爽やかな風が入った。一輪挿しに飾られたトルコギキョウの淡い色が抜け出しそうで、私は目で制する。
――四組。
――あら、奇遇。私も六年四組だったよ。お揃いね。
――もうすぐ死ぬってのに、四が揃いで不吉この上もないわ。アホ孫。
と、祖母は掛け布団被って出てこない。光が差すと醜くなってしまった自分を感じて嫌なのだと言う。悲しい事ばかり言うようになった祖母だけど、私はいい、私はまだ悲しみに余裕がある。
――どうして、小学六年のおばあちゃんを呼ぶ必要があるの?
私は病室の冷蔵庫を開ける。祖母が飲まなかったミルミルのドット模様がまばたきにうるさい。だからストローを刺してやる。黙れ黙れ、ジュウジュウ。ジュルルルルルルルル。
――汚い、やめなさい。
――掛け布団から守られずに言うならやめてやる。琴音さん、あなたは完全に包囲されている。罪を重ねずに出ておいで。
――だって。髪を梳かさないから抜けた髪が頭中にビロビロしてんの、見るに堪えないし、暗くなるまでせめて待って。
――何をウブな生娘ぶってんです、今時の小学六年でもそんなじゃないよ。
――昭和時の小学六年よ。あの時代のウブを舐めんじゃない。初夜にベロ攣ったんだからね。
初夜に舌攣った。あははは。おばあちゃん、調子出てきたじゃん。
病室で私、祖母を見ていた。上下する掛け布団が時間を遡っている。一息、一息、一段、一段、階を降りるように。
出てこい、君は包囲されている。
そうよねぇ。私は丸椅子に胡坐で座って思案するのだ。小学六年の祖母はあの掛け布団の中にしかいないよねぇ。
――あんたが頑張って探してきてくれたけどさ。
皺の寄った声だ。そうか、皺ってやつは顔と体にもうこれ以上寄れなくなって声にまで寄るのか。嫌な奴。
――うん。
――今の私が観ても意味がないって気付かなかったんだよ。なんてーの、弾を込めないのに引き絞っても意味がないんだよ。あんたはピストル持ってきてくれたけど。
二週間前、私は祖母に頼み事をされた。
――毎日が凄く短いんだ。とりあえず生きるに足りる体調の日はさ、終わって欲しくなくってあっと言う間に一日が過ぎちまう。掴みどころのない鯰みたいだ。
とりあえず生きるに足りる。祖母の言葉は私の心に魚の小骨みたく刺さっていく。きっと、鯰の小骨だ、鯰のヤロー、おばあちゃん元気になったら二人がかりだ。
――そんな鯰みたいに掴まれない毎日の中で、私が思うことは昔のことばっかりだけど、記憶がどーにもアバラ傘でね。
アバラ傘。どっちだろう。祖母はよく訳の分からない自分の言葉を使うことがあるから気が抜けない。うっかり真似して使うと恥をかく。私は目でお伺いを立てる。祖母はちょんっと鼻先を触った。この仕草は、使うなのサイン。了解。
――傘なんだけど、そう、思い出だから、大切な記憶だから病気の雨を避けるためにこう、差すんだわ。開いたら、骨ばっかり。役に立たない。それでもやっぱり、差さずにいられない。そんな記憶をね、ツミキちゃん、あんたに探してきて欲しいの。
――そんな抽象的な。
――チッチ。
祖母は私が死神の賄賂に持ってきたわらび餅を平らげた爪楊枝振るってみせる。
――映画なの。
――そうなの。
祖母のお願い事は、子供の頃に観たはずだけど、ワンシーン以外はすっかり忘れてしまった映画を探して欲しいとのことだった。
――成功報酬は?
私は祖母のわらび餅腹をさすって訊ねた。掌に夏の残響が甘く聞こえた。
――一万円。
――もう一声。
――一万二千円。
――よかろう。
私は一万二千円で買える差し入れを頭の中の回転レールに置いて回した。翁屋の芋けんぴ、福寿屋の豆大福、スミレ堂の苺タルト。
――で、どんな映画?
――ワンシーンだけ、覚えてる……。
十一歳の祖母を、私は呼べる。
成功報酬の一万二千円で、呼び出した十一歳にお小遣いをやろうか。
映画はみつけてきたんだ。無駄にするもんか。アバラ傘に降る雨、私の口じゃ飲み切れないからな。傘、記憶、埋めてやるよ。私を誰だと思っているの? これでも人気声優なんだから。
病室に声を探す。
十一歳の祖母を呼んだ声を。
祖母の記憶、は、きっとこの部屋にこぼれているから。
そいつを捕まえて、私の声で、呼ぶ。
――琴音ちゃん。
ケホ。
流れの中に突っ込んだ喉に、たくさんたくさん、声が飛び込んでくる。ケホ。
――琴音、琴ちゃん、琴音ー、こーとちゃん。
声音が私の遠く、近く、重なって、後は祖母に任せる。
――琴音、琴音。
ザブン。と、祖母が掛け布団をめくった。
――裕美叔母ちゃん。
十一歳にはみえないけれど、呼べば応える。呼応した声のハイタッチは私が探した映画のワンシーンによく似ていた。
――ほれ、映画観よう。
トントン。ベッドのテーブルに私を催促して、祖母は手櫛で前髪を流していた。細い白髪がおでこに輪郭を拵えて、しゃんとある。
――思い出した。東京の裕美叔母ちゃんが連れてってくれたんだ。映画館。その前にデパートで、ペプシコーラの自販機が十五円だった。
アバラ傘に降る雨がきっと止んでいる。祖母はとめどもなく語った。その言葉たちは濡れていたい雨のようだった。
――エレベーターガールの帽子がカッコよくって、お子様ランチのオマケに貰ったオモチャの笛は、叔父さんの車をピリピリやったっけ。
ポータブルのDVDプレーヤーに白黒の映画が流れる。
祖母が記憶していたシーンは、主人公の少年とガールフレンドが世界地図を丸め端と端覗き合うシーン。ラジオの収録ついでにスタッフさんにお願いして調べてもらったら難なくみつかった。
――懐かしい。
――六十年以上観てなかったの?
――ああ、観たことすら忘れてたんだもの。ほら、ここ。いいだろう?
――うん。
ちゃんと仕込んである。私は世界地図を丸めると、祖母を覗いた。
――あ!!
祖母は勘所突かれたように叫ぶと、声を品性に戻して言う。
――これもやった。裕美叔母ちゃんと、真似した。世界地図を買ったお店は変な臭いがして、私は外で待ってた。立て看板の周りをグルグル回って。
覗いたら世界が丸まって、二人が世界の支配者になる。
二人なら何処へでも行けるし、なんだってできるんだ。
――ん。
一瞬、祖母の目が幼く見えて、私はもう一度だけ呼んだ。
――琴音ーーーーーー。
――そう、デパートの人ごみの中で私、風船を配ってるおじさんのとこへ走ろうとして、裕美叔母ちゃんに叫ばれた。
丸めた世界地図を開く。本日世界的に雨。記憶の傘の中に土砂降りの雨。映画も終わる。昔の映画は短い。
――どうだった?
祖母に訊かれて、私は素直に感想を言う。
――あのシーン以外印象に残りませんでした。
――でしょう。
祖母も頷いている。
――この映画はあのシーンだけの映画なんだろうと思う。それぐらいにあのシーンはよくできている。淀川さんもきっと大絶賛だ。
あ、ラジオのスタッフさんに聞いた映画の評判は内緒だわ。
――呼んでくれて、ありがとね。
祖母はまた掛け布団に潜り込んでしまった。
君は包囲されてない。次にまた包囲するために、君に言わなくてはいけないことがある。
――次の依頼は?
祖母はモゾモゾと布団の中で寝返りを打って、十一歳ではない声で言った。
――考えとくよ。
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