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それが一体、何の音なのかしばらく解らずにいた。僕の耳には、どこかで聞いたことのあるメロディが聞こえていた。
そういうことは、ショッピングモールなどにいるとよくあることだし、カフェでコーヒーを飲んでいるときも、病院の待合室にいるときなんかにも起こる。
でも、ここは自宅だ。僕は今は一人暮らしだし、今はテレビも点けていない。それどころか、そもそも僕は2LDKのこの部屋に引越して以来、テレビというものを持ってすらいないのだ。馬鹿馬鹿しい騒音とケバケバしい色の洪水を垂れ流すだけのあんな機械を持っているだけでNHKに受信料を払わなくてはいけないなんて馬鹿げている。
幸い、ついこの間までここで一緒に暮らしていた同居人も、テレビを必要としなかったので、前の部屋を出るときに置いていったのだ。
そのメロディはしばらく鳴り響き、唐突に切れた。それで僕はそれが何であるかを理解した。僕のスマホだった。
僕は着信音がMr.Childrenであったことに軽い驚きを感じた。自分が設定したのだろうけど、全くそのことを覚えていないし、自分がそういう選曲をするとも思えなかったのだ。
近頃では、メールやLINEで用件を済ませることが多く、滅多に電話を掛けることも受けることもない。メールの着信音は短い電子音にしていたため、自分のスマホが鳴っているという事実を把握するのに時間が掛かってしまった。自分の記憶を辿ってみても、一年前に今のスマホに変えてから、電話の着信音を聞いた覚えはなかった。
僕のスマホは、おそらく着信音が設定されてから初めてMr.Childrenの『終わりなき旅』を鳴らして、その本来の目的が電話機能にあることを持ち主に知らせた。
どこかから電話が掛かってきたのだ。ということは、メールやLINEでは駄目な用事が僕に発生しているということだった。
何か緊急を要する、たとえ心の準備が出来ていなくても否応無しにやらなくてはいけない仕事が僕にあるということだ。
何だろう?と僕は思った。自動車保険の更新は先月済ませたはずだし、電気料金や水道料金は全部自動引落しにしてあった。
通帳の残高もまだ3カ月分ぐらいは余裕があったはずと思いながら、カバンに入れっぱなしだったスマホを取り出し、アプリを起動させて、発信人を確認する。
葬儀屋だった。
僕はつい一月前までこの部屋に一緒に暮らしていた同居人のことで、葬儀屋に必要なお金を払っていたことを思い出した。
「もしもし」
と、僕は折り返して電話をした。
「先程、電話を頂いたようなのですが、三上です」
「お電話ありがとうございます。こちらは野毛葬祭です。三上さまでございますね。わざわざ折り返し頂きまして大変恐縮です。私、先日、三上さまの担当をいたしました高橋ヒロコと申します」
電話に出たのは、一月前に僕が葬儀屋に行ったときに担当してくれた若い女性のスタッフだった。若いとはいっても、おそらく30を少し過ぎた頃なのだろう。葬儀屋の黒い制服を着て、洒落気のない肩までの黒髪には、白いものが数本混ざっていた。
名前は覚えていなかったが、僕はその担当者の人を見たとき、すごくホッとしたのを覚えている。白く、化粧っ気のない、どちらかというと(どちらかと言わなくても)地味な顔立ちの彼女に、大切な存在を失ったばかりの僕の心が癒された気がした。
彼女が葬儀屋で働いているという事実が、すごく世の中にぴったりと収まっているような感じがして好感が持てた。
おそらく、僕は彼女をコンビニの店員として見かけても全く印象に残ることはなかっただろうし、歯医者に行って担当が彼女だったら口を開けるのも嫌になっていただろうし、新車を買いにディーラーに行って、お茶を出してくれたのが彼女だったら、二度とそこのメーカーの車には乗らないだろう。
僕は彼女が自分の前に葬儀屋のスタッフとして現れたことで、世の中にまだ正義が残っているような気になったのだ。それぐらい彼女の見た目の印象は葬儀屋という場所に似合っていた。
「三上さま。先日お伺いした件でございますが、そろそろいかがなされましょう。実は、今週の日曜日は、大変お日にちも良くなっておりますが」
最大限、顧客に気を使った言い方で彼女が聞いてきた。そんなふうな話し方をしなくても、僕は気分を損したりしないし、もっと事務的に言ってくれればそれでいいのだが、彼女が普段、相手にしている顧客の中には、愛する存在と永久に別れるということに神経過敏になる人もいるのだろう。
特に僕のように、遺体を葬儀屋の冷暗室に置いて葬儀の日にちを先延ばしにしているような顧客はなおさらなのかもしれない。
僕が葬儀を先延ばしにしていたのは、何と無しにそういう気分ではなかったからだし、都合を付けられなくはなかったのだけれど、丁度いい具合に色々な用事があったからだった。
それにしても、ずるずると1カ月も先延ばしにしていたのだと、彼女からの催促の電話で改めて気付いた。
「日曜日ですか。僕にとってもその日は都合がいいです」
あまり彼女に神経を使わせてもいけないと思った僕は、それで決定することにした。いずれにせよ、別れの日はやってくる。
「ありがとうございます三上さま。午後3時が開いておりますがいかがなさいましょうか」
「それでお願いします」
そう言って僕は電話を切った。
久しぶりに人の声を聞いた気がした。
この部屋で僕と生活を共にしていた女が死んでから約1カ月。
最近の葬儀屋では、なるべく別れを惜しんでいたいという人のために、遺体を強力な冷気で冷却して、しばらく葬儀の日にちを先延ばしにしてくれるサービスがある。
もちろん、日ごとにそんなに安くはない料金が掛かるために、全ての人が利用するというわけではない。
彼女は幼い頃に両親と別れて、そういう子供を育てる施設で育てられたから、身寄りと呼べるものはいない。
僕の戸籍に入っているわけではないので、法的な権利は僕にもないのかもしれないが、長年一緒に暮らしてきたのだから、実質家族と言ってもいいだろう。
1カ月経っても他に誰も彼女の家族であると名乗り出るものがいないのだから、葬儀も僕が喪主ということでいい。
電話を切り、改めて部屋の中の見渡す。部屋には、彼女が好きだったものの痕跡がそのまま残されていた。彼女が亡くなって以来、手を触れることもなく、よく見ると、表面には薄っすらと埃が積もり始めていた。
そろそろ新しい生活を始めるタイミングだった。
葬儀当日、僕は約束の時間に間に合うように家を出た。
服装はどうしようかと思ったが、黒いスーツにした。どうせ出席者は僕一人である。わざわざ礼服にする必要まではないだろう。
僕は三揃いの黒いスーツに身を包み、ネクタイはどうしようかと思ったが、一応、喪用の黒いネクタイにすることにした。ネクタイを締めると、黒ずくめになった全身を姿見に写す。そこには死んだ彼女の好みではない姿が写っていた。
彼女は堅苦しい格好が好きではなかった。気取った感じも好きではなかった。彼女と過ごすときは、いつもラフでカジュアルな格好だった。二人でドレスコードが必要なレストランに行ったこともないし、出掛けるときは近所の公園をしばらく散歩することが多かった。
仮にジーパンとパーカーで行っても、あの世で彼女が怒ったりすることはないだろうが、一応、身だしなみを気にしたのは、葬儀屋の担当者が女性だからかもしれない。
自宅を出て、車を停めてある駐車場に歩いて行くまでの間、カラッとした冬の日差しが僕を照らした。
自分で車を運転して、3時20分前に葬祭場に着く。広い駐車場は車もまばらで、僕は自分のトヨタ・ヴィッツを建物から離れた場所に適当に停めた。
大きな葬祭場の建物の扉を潜ると、簡素なロビーが広がっていた。あまり大きくはない音で、オルゴールの曲が流れていた。
僕にはその曲が何の曲なのか判別がつかなかったが、よくありがちな、ヒット曲をオルゴール化して集めたCDだろうと思った。
すぐに僕を見つけた高橋ヒロコさんがやってきて、深々と一礼をした。以前、見たときと同じように化粧っ気がなく(ナチュラルメイクはしているだろうが)、無造作に撫で付けた肩までの黒髪には、何本か白いものが見えた。
「三上さま。お待ち申し上げておりました。本日はお日柄もよく、絶好のお葬式日和でございます。こういう乾燥した日には、ご遺体がよく燃えます。 こういう日に三上さまの家のお葬式を担当出来ましたことを、大変光栄に思います」
高橋さんは僕に丁重に挨拶をすると、笑顔の一つもない、真面目くさった顔で僕を見つめた。真剣な表情の中に、あどけないものが見える。
少し白髪が表れるぐらいの年齢なんて、まだ子供なのだ。まるで時間が止まったかのような錯覚に陥るが、それもほんの一瞬のことで、すぐに平静を取り戻した僕は、高橋さんの髪の白いものも、徐々に増えていくのだということに思い当たる。
「三上さま。こちらへどうぞ。ご遺体はまだ冷暗室に安置しております」
僕は高橋さんの後をついて、冷暗室へ続く通路を歩いて行った。
「一つ聞きたいんだけど」
「はい。何でございましょう」
「今、凍っている遺体を解凍かなんかするんでしょうか」
「いえ。それだとご遺体がべしょべしょになってしまいますから、凍ったままで火葬いたします。それゆえ、冷暗室をご希望のお客様の場合は、通常よりも強い火力が必要になります」
「そうか。それで今日みたいに、よく晴れて乾燥した日が好まれるわけだね」
「はい。絶好の葬儀日和でございます」
冷暗室へと行く間、僕は高橋さんに質問をした。質問しながら、どうでもいい質問じゃないか、と思わないわけにはいかなかった。考えてみれば、遺体を解凍するわけないじゃないか。それでも、僕はあえて質問したのだと思う。何でもいいから、高橋さんと話をしてみたいという感情が芽生えていた。
すぐに僕等は冷暗室に着いた。
高橋さんがドアの鍵を開けて中に入ると、冷んやりとした冷気が溢れ出てきて、僕等の体を包んだ。
僕も高橋さんに続いて中に入ると、小さな部屋の壁一面が、遺体を入れて冷凍しておくボックスを入れるためのスペースになっていた。僕の彼女の遺体が入っているボックスの前には、簡単な台車が用意されていた。
高橋さんがボタンを押すと、縦80センチ横50センチばかりの黒い箱がゆっくりと飛び出てきた。高さも50センチぐらいだろうか。僕は高橋さんと協力して、その箱を台車の上に乗せた。箱の上側は透明なプラスチックで覆われており、中が見えるようになっている。
僕は箱の中に凍ったままで横たわる彼女の顔を覗き込んだ。凍っている。完全に凍っているな、という感情だけだった。ほんの一月前まで元気に動き回っていたのに、今ではすごく物質的な感じがした。
僕等は二人で台車を押して冷暗室を出た。高橋さんがドアの鍵を掛け、冷気が封じ込められた。
「それでは、炉の方へと参ります。途中、最後のお声掛けをしていただいて構いません」
「うん。大丈夫だと思います」
「しばらく冷暗室をご利用になられたお客さまは、皆さん、そう仰る方が多いですね」
「この子がいない生活に、いつの間にか慣れてきていたのかもしれませんね。なかなかいいシステムかもしれません。死んだすぐに火葬されてしまうと、気持ちの整理がつかない。人間もこういうシステムにすればいいのに」
「人の場合は、まだ、難しいかもしれません。でも、そのうちそうなるかも。だって一月経つと、皆さん前を向かれていらっしゃいますからね」
「この子が死んだときには、もう二度と猫は飼わないと思ったけど、新しい子を飼うのもいいかもしれないな」
「ペットショップのパンフレットはご覧になられましたか?入り口のところに置いてあるのですが」
「気付かなかったな。帰りに見てみます」
取り留めのない会話を交わしながら、僕等は炉の前まできた。高橋さんが壁のスイッチを押すと、ウイィィンという機械音がして、館内に流れていたオルゴールの邪魔をした。鋼鉄製の焼却台がせり出してきて、僕等はシェリル………僕が飼っていた猫………正確に言うとその死骸が入ったボックスを焼却台の上に乗せた。
「さよなら、シェリル」
高橋さんが壁のスイッチを押すと、シェリルを乗せた焼却台は、出たときと逆の方向に入っていった。再びウイィィンという音がして、またオルゴールが邪魔される。高橋さんが別のスイッチを押すと、鉄の扉が自動的に閉まり、その上からまた、銀色のアルミの扉が閉まった。
ほんのひととき、機械音に乱された館内は、再び静寂を取り戻し、僕の耳にはオルゴールの音が聞こえてきた。それが知っている曲であることに思い至る。
「終わりなき旅」
「え?」
シェリルの死骸が入っていった方向を一瞬に見ていた、高橋さんがキョトンとした表情で僕の方を振り向いた。
「オルゴールです。この曲は知っています。Mr.Childrenの『終わりなき旅』です」
ああ、と、高橋さんが納得の表情を見せる。ほんの一瞬ではあったが、仕事用の真面目くさった沈痛な表情以外の表情を垣間見ることが出来たことに嬉しくなる。
「焼却は1時間ほどで終わります。お骨は拾っていかれますか」
すぐに真面目な顔に戻った高橋さんが聞いてくる。
「いえ、そちらにお任せします」
「分かりました。では、火力を上げます。猫ちゃんの骨は柔らかいですので、骨まで跡形も無く焼かれます」
そう言って高橋さんはボタンの操作をした。
後は任せてしまえば、これで葬儀は終わりだった。
「さっき仰っていたペットショップのパンフレット、見たいですね」
「ええ。ご案内しますわ」
僕等は入り口へと戻っていった。
「今度も猫ちゃんになさるのですか?」
「ええ。一人暮らしなものですから。なるべく手のかからない動物がいいです。犬は昔、実家で飼っていたけど、散歩に連れて行く余裕がないな」
「失礼ですけど、アパートですか?」
「ええ」
「私もアパートで一人暮らしなんです。一応、ペット可のところなんですけど、今は何も飼っていなくて。少し前までハムスターがいたんですけど、死んでしまって。ハムスターは火葬もせずに、実家に持って行ってお庭に埋めて来ました」
「また新しいのを飼おうとは思わないんですか?」
「どうしようかと。手のかからない動物なら」
僕等は入り口付近に置いてあった、ペットショップのパンフレットを手に取りながら会話していた。
「一回、切れると次はどうしようかと思いますよね。僕も、どうしようかと」
本当に、僕はどうしようかと思っていた。
「でも、やっぱり、魅力的なんじゃないかと。この1カ月、気付いたらそういうことばかり考えている自分がいましたよ」
嘘ではない。嘘ではないなと思った。
「高橋さん。良かったら、そのぅ、もしお考えでしたら、見るだけでも。今度、そのぉ、僕と一緒にペットショップに行ってみませんか」
そう言った僕の声は震えていた。我ながら情け無いほどに震えていた。
高橋さんは、一瞬、驚いたような表情を浮かべたが、笑顔を見せてくれた。
「そうですね。三上さんは、土日がお休みですよね。実は、来週の土曜日が非番なんです」
「じゃあ、その日に。来週の土曜日に」
連絡先を交換して、その日はそれでおしまいだった。
次の土曜日に、僕は高橋さんと一緒にペットショップに行き、犬や猫やハムスターなどを見て回った。
結局、二人とも新しいペットは買わなかったが、僕たちはその後もデートを重ねるようになった。
今の僕には、猫はいなくなったけど、ガールフレンドがいる。それも、葬儀屋のガールフレンドだ。ペット専門だけれども、立派な葬儀屋だ。純度100パーセントの、穢れなしの葬儀屋だ。化粧っ気を感じさせないナチュラルメイクの、素朴に撫で付けた黒い髪に白いものが数本混ざった、混じりっ気無しの葬儀屋のガールフレンドだ。
「葬儀屋のガールフレンド」
と、声に出して言ってみる。
うん。いい。
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