新サロメ

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 「ここへサロメを呼べ」  ヘロデ王は衛兵に命じた。すぐサロメが広間に来た。宴に招待された将校や高官らの目は、彼女のしなやかな身のこなしに釘づけになった。ある者は、その可憐さに思わず溜め息をもらし、ある者は、その艶やかさに知らず知らずのうちに鼻の穴をふくらませた。彼らの反応は、王を深く満足させた。王自身、娘サロメの肉体的な魅力が世の男どもをつぎつぎと引き寄せてしまうことを、よく知っていた。サロメの、まるで採れたての果実のように溌剌とした肌は、若い男どもの情欲をかきたてた。老人ですら、サロメを一目見れば、「おれがもう少し若ければ、あの女とともに同じ褥で夜明かししたものを」と歯ぎしりした。日頃から、賛美の言葉を並べたててサロメに近寄ろうとする若くて勇敢な(あるいは無鉄砲な)男があとを絶たなかったが、ヘロデ王が彼らを遠ざけた。王にとって、有象無象の男どもから娘を守るのは、ご馳走にありつこうと飛びまわる蠅をはらいのけるのと同じぐらいに容易いことだった。それほどまでに王の力は絶対的だったのである。むしろ彼はみずからの権力の強さを確かめるために、娘サロメを疑似餌にして男どもをおびきよせては、娘に指一本ふれさせることもなく見事なまでに蹴散らした。彼はそれを楽しんですらいた。だから、機会があるごとに娘の美貌をひけらかした。今宵ひらかれた自分の誕生日を祝う宴席でも、やはり彼は娘を披露せずにはいられなかった。もっとも今宵の招待客は、やや年の食った高官や将校ばかりで、サロメをおのれの手に入れようと愚かな夢を見るような人間はいなかったのだが、それでも王は、彼らがサロメの美しさに嘆息するのを見て、深く満足していた。王はサロメを介して、あまたの凡俗にたいする優越感をあじわっていたのである。  サロメは、広間の中央に立った。招待客らの視線が、サロメをぐるりと取り囲んだ。王はサロメに、ぜひとも今宵のお客様方をおまえの踊りで歓待してほしい、と頼んだ。  サロメは颯爽と踊りはじめた。ヘロデ王は思った。たとえ世界でもっとも美しい蝶でさえサロメほど美しくは舞えまいと思われるほどにサロメの踊りは美しい、と。招待客らは、目のまえで躍動するサロメの肉体に、息をのんで見入った。王は深く満足した。  踊りが終わると、招待客らは口々に賛辞を述べたててサロメの踊りをたたえた。広間は興奮の熱気に包まれた。王は、いつになく上機嫌になった。そして、あふれ出る笑みに顔をくしゃくしゃにしながらいった。  「みごとな踊りだった。おまえほどの踊り手は、たとえ世界をまるごと引っくり返しても、ほかに現れはしまい。私の誕生日に、おまえは何とも素晴らしい花を添えてくれた」  サロメは少し息が上がっていたが、まっすぐに立って、父であり王でもある男の言葉を聞いていた。王はさらに続けた。  「私はおまえの労を報いてやりたい。そこで、私はおまえの望むものを何でも与えようと思う」  サロメの上気した顔に笑みがこぼれた。王は上半身を前に傾けて、サロメの澄んだ目をのぞきこんだ。  「どうだ?なにか欲しいものはあるか?」  サロメは何か言おうとして唾を飲みこんだが、まだ呼吸が整わず、すぐに返事ができなかった。それを見て取った王が言葉を継いだ。  「おまえの欲しいものは、なんでも与えよう。おまえが望むのなら、たとえ私の領地の半分でも、こころよく分け与えてやろう」  招待客らはどよめいた。そのどよめきが王の満足感を快く刺激した。サロメが踊り、それにこたえる形で王が、公正で、なおかつ寛大な態度をあらわしながらサロメに褒美を与える——これ以上に王の権威を示すのに効果的な演出はないと思われた。この瞬間に、王の満足感と優越感は、ほとんど沸点に達しようとしていた。王は、広間の空気が冷めぬうちに、前言が偽りの約束ではないことを大きな声で宣誓した。それと同時に頭の中でこう考えてもいた。年端のゆかぬ処女が領地など欲しがるはずない、彼女が所望するのはきっと宝石や首飾りの類だろう、と。  サロメは、かすかに上下する胸のうえに手を置いていった。  「ありがとうございます。わたしの踊りが皆様のお気に召して、ほんとうに良かったです。光栄なことです。しかし、正直に申し上げますと、わたしは、自分の欲しいものが何なのか、見当もつきません。なので、少し考える時間をいただけますか?」  ヘロデ王は鷹揚に頷いた。  「もちろん、いいとも。ゆっくりと考えなさい」  サロメは広間から出て、自室へとさがった。自室の手前で、へロディアが柱の陰からあらわれてサロメを呼び止めた。ヘロディアはサロメの生母である。彼女はサロメに、宴の様子を訊いた。サロメは、踊りのこと、王がくれるという褒美のことを報告した。ヘロディアはいった。  「それで、おまえは何が欲しいのだ?」  サロメはいった。  「わたしはなにもいりません。欲しいものはありません」  するとヘロディアは優しく微笑んでいった。  「おお、そうだろうとも。今のおまえに欠けているものは何一つないのだから。あのヘロデは、領地でもなんでもくれると嘯いたというが、うら若い乙女に、どうして土地なんかいるものか。あんな概念的なものを欲しがるのは、馬鹿な男だけだよ。……それよりも、私には、どうしても手に入れたいものが、一つだけあるのだよ。もしも、おまえが気を悪くしないのなら、今は私の願いを聞き入れて私を喜ばせてくれはしないか」  「ええ」とサロメは即答した。  「おお、可愛いサロメ。私の愛するサロメ」  そう言って母は娘の華奢な体を抱擁し、背中をやさしく撫でながら、娘の小さな耳に唇を近づけた。  五分ほど経って、サロメが戻ってきた。王が呼びかけた。  「欲しいものは思いついたかな?」  サロメは王の目をまっすぐに見すえながら口を開いた。  「ぜひ洗礼者ヨハネの首をきって、盆にのせて、ここにもってきてください」  サロメの異常に甲高い声が、広間にひびきわたった。王は絶句した。広間は水を打ったように静まりかえった。その場にいた全員が、みずからの耳を疑った。——サロメが、洗礼者ヨハネの首を?いったい、なぜ?——  王は混乱した。サロメが正気を失ったのではないかと思ったのだ。だが、彼の目の前にいるサロメは、いつものサロメだった。王は彼女の要求を斥けたかった。おまえにそんなものを与えるわけにはいかない、と。しかし、それが王にはできなかった。  招待客らは、王の反応を横目でうかがった。王は黙考した。  サロメの要望について、王の考えと、招待客全員の考えとでは、微妙な相違があった。王は、サロメの所望をぴしゃりと撥ねつけたかった。一方で、招待客らは、サロメの所望がきわめて奇妙な、突拍子のないものだと思いこそすれ、それがヘロデ王にとって具合の悪いものだとは考えなかった。実際、洗礼者ヨハネは、ヘロデ王の館の地下牢に囚われていた。何者とも知れないヨハネという初老の男は、ヘロデ王をはじめとする権力者たちを公然と批判して憚らず、そのために逮捕されたのである。そんな「危険人物」の首を刎ねることなどは、ヘロデ王にとって、道ばたの蟻を踏みつぶすのと同じぐらいに容易いはずだった。しかし、王はヨハネを捕えたものの、殺さずに生かしていた。王は、洗礼者ヨハネを捕えた後に、彼がただの反権力的な扇動者ではなく、なにか人知れぬ力を秘めた聖者のような存在だと直観したのである。王は、満足感・優越感の源である権力を手離すことだけはしかねたが、それでも、ヨハネの言葉に一片の真理が含まれていることは認めないわけにはいかなかった。だから、王は、サロメにその首をもとめられても、洗礼者ヨハネを殺したくなかった。あまりにも畏れ多くて殺せないのである。だが、招待客らは皆、「なぜサロメが洗礼者ヨハネの首を欲しがるのかはわからないが、いずれにせよ、この機会にヘロデ王はあいつの首を刎ねるだろう」と考えた。  洗礼者ヨハネを殺せば、王は自分の良心に背くことになる。加えて、ヨハネを慕う民衆の反感を買うことになる。しかし、殺さなければ、領地まで引き合いに出した先ほどの大がかりな宣誓が偽りであったと疑われ、しかも、「王は洗礼者ヨハネを、自分の領地よりも大事にしている」と招待客らに見透かされる。それは、ヘロデ王にとって、これまで磨きあげてきた権力の伽藍に、一縷のヒビが走ることを意味していた。王にとって、それ以上の不愉快はない。  みずからがのっぴきならぬ状況に嵌りこんでいると自覚した瞬間に、王は黒幕の存在を悟った。彼の頭に、ヘロディアの顔が浮かんできた。  サロメに血を分け与えただけあって、ヘロディアは、娘の美貌を連想させるような顔つきをしていた。しかし、ヘロデ王からすれば、サロメの健康的な瑞々しさとは対照的に、ヘロディアの風貌は病的といっていいほどやつれていた。彼女の肌は、熟れすぎた果実のように萎れて、生気を失っていた。なにかの心労が彼女の生気を奪い取っているかのようだった。だが、その心労がどこに端を発しているのか、王は知らなかったし、あえて知ろうともしなかった。むしろ王は、妻が病におかされているのだと解釈した。そして意図的に、彼女とのあいだに距離を置くようにしていた。大勢の集まる場所にはなるべく出てこないように彼女の行動を制限してもいた。今宵の祝宴に彼女が出席しなかったのはそのためである。しかし、その対応が、ヘロディアに、サロメへ付け入る隙を与えた。  王は思った。  「たしかにヘロディアはヨハネを嫌悪していた。早くヨハネを死罪に定めるよう直言してきたことも一度や二度ではなかった。しかし、こんな卑怯な手をつかってまであの男を死なせたがっているとは、私は気づかなかった」  王は、妻の謀略を憎むと同時に、みずからの浅はかな智慮をも憎んだ。  サロメは、逡巡する王を催促するかのようにいった。  「洗礼者ヨハネの首を」  しばしの沈黙が流れた。王は、喉の奥から空気を絞り出すようにしていった。  「よかろう」  そして衛兵に、いますぐ洗礼者ヨハネの首を切ってもってくるように命じた。衛兵たちは、地下牢に向かった。サロメはいったん引き下がり、母のもとに向かった。  王は、広間の中央の、さっきサロメの踊っていたあたりをぼんやりと眺めていた。そして、洗礼者ヨハネが捕えられたその日の夜に、みずから地下牢におもむいて直接、彼と対面したことを、鮮明に思い出していた。あの夜、王は、地下牢に座るその男を見た。そして、その尋常でない佇まいに、少し怯んだ。王は問いかけた。  「お前は一体何者なのだ?人々はお前を、預言者エリヤの再来だと噂しているが」  ヨハネは思慮深い目で王をまっすぐに見すえながら口を開いた。  「わたしはエリヤではありません。わたしはただ、荒れ果てた道を整えていただけです。わたしのあとから来られる方のために。そして、その方はすでに来られています。その方は、聖書に書かれてあることを実現されます。その方は、ナザレのイエスというお方です」  彼の目線はまっすぐに王の顔をとらえていたが、同時に、王の顔を貫通してどこか遠くを見ているようでもあった。  衛兵が地下牢へ向かってから三分ほどが経った。王は、洗礼者ヨハネの首が落ちる音を聞いたような気がした。もちろん気のせいだった。王は気を静めるために葡萄酒に口をつけた。しかし、何の味もしなかった。  十分ほど経って、衛兵が広間に入ってきた。衛兵の手には銀製の盆があり、その上に、豊かな白髭をたくわえた男の生首が載せられていた。盆のふちから、真っ赤な血がぼたぼたと垂れていた。王は目を伏せた。  「サロメをここへ呼びなさい」  彼はかたわらにいる衛兵に命じた。その声は、まるで重い病にかかった人のように弱々しかった。  サロメが来た。彼女は、何も言わずに衛兵から盆を受け取った。そして、そのまま立ち去ろうと歩を進めたとき、生首が盆の上から転がり落ちた。ちょうど、水のたくさん入った革袋が落ちたときのような鈍い音がした。サロメは表情を変えずに、ヨハネの髪の毛を掴んで拾い上げ、盆の上に戻した。そして、ヨハネの頭を片手で押さえながら広間から退出した。                  *  サロメは、窓から流れこむ冷気に体をさらしていた。ひんやりとした夜風が顔にふきつけてきた。体温が下がるにつれ、彼女は、自分の頭が冷静さを取り戻して明瞭に澄んでくるのを感じた。そして、澄んだ頭で昨日の晩のことを回顧すると、不意に、立ちくらみに似た感覚におそわれた。その感覚はあたかも、目まぐるしく疾走する馬車から急に突き落とされて道ばたに一人取り残されたかのようなものだった。走る馬車のなかでは、さわがしい興奮に惑わされて落ち着きを失っていたが、道ばたに置き去りにされた今、客観的にみて、馬車の内部がどれだけ異常な状況だったかが、彼女にはよく呑みこめた。  サロメは内省した。そして、昨日の自分が、王や招待客らによる喝采にすっかり酔い痴れていたことに、今さらのように思い至った。踊り終え、男たちの口から称賛の言葉を雨のように浴びせかけられたとき、彼女は深く満足していた。満足……いや、ちがう、と彼女は思った。あの感覚は、満足という感覚ではなかった。あの感覚は、彼女を満ち足らせることは決してなく、彼女の目のまえに鮮やかな光を照射して一瞬のうちに通り過ぎてゆく、そういう性質のものだった。それは、満足というより、恍惚というべきものだと彼女は考えた。その恍惚の感覚は、瞬間的であるにもかかわらず、ふだんの日常生活においては絶対に経験できないほどに強烈だった。  踊りこそが、自分の若さと美しさとを申し分なく体現してくれるものだ、とサロメはつねづね信じていた。昨日披露した踊りにおいても、彼女の若さと美しさは、踊りのなかに不足なく満ちていた。どんな男であれ、彼女の踊りが現出させる若さ・美しさのスペクタクルを目にすれば、彼女を褒めそやさずにはいられない。そうして発せられる褒め言葉以上に彼女を恍惚とさせられるものは、この世には見あたらなかった。  サロメは愕然とした。これまでの自分の幸せが、下らぬ男たちの賛辞によってしか支えられていないという事実に。そして、その事実は、自立した心が彼女に欠けていることを暗示してもいた。ほんとうに頑丈な、自立の心をもった人間ならば、他人の、真意のわからぬ言葉に恍惚とさせられるはずがない。自分という存在は、中身が空洞の、一本の筒のような存在にすぎないのだ、という感傷的な想念がサロメの胸をよぎった。  うつむきながら彼女はさらに考えを前進させた。私が一本の筒であるならば、いままでどんな人たちがその筒の空洞に、あれやこれやの詰め物を押しこんできたのか……。そこまで考えたとき、ヘロデ王や、名前もわからない若い男たち、そして、昨日の招待客らの、おのおのの顔が一人ずつ現れ、それらにつづいて、母へロディアの優しげに微笑む面貌が、サロメの心に浮かびあがってきた。  その顔に直面すると、サロメは、まるで唇を歯で引きちぎろうとでもするかのように強い力で唇を噛みしめた。そして、みずからの空虚さを呪った。また、みずからの無意志をも呪った。その空虚さと無意志とが、間接的であるにせよ、洗礼者ヨハネの命を奪ったのだから。  ただし、彼女はヨハネの首の行方を知らなかった。自分が彼の首を受けとったことすら、よく覚えていなかった。昨日、彼女は踊り終えてからずっと、目のくらむような恍惚に惑溺しきっており、その間、周りで何が起きているのかを正しく認知していなかったのである。彼女の記憶は全体的に、まるで蜃気楼のように曖昧模糊としていた。はっきりと思い出せるのは、冷たい水に両手を浸して、べっとりとこびりついた血を洗い落としていたこと、それだけだった。そのときもまだ、彼女の頭は、恍惚の余韻に乱されて、事態を正しく捉えてはいなかった。  だが、記憶が朦朧としているとはいえ、サロメの所望によってヨハネの首が切り落とされたという事実は、サロメ自身にとってもあきらかな、確乎たる現実だった。サロメは悄然とした。そして思った。  「私はひどく愚かだった。私は、自分で馬に鞭をふるっているつもりだったが、最初から、他人の馬がくりひろげる競争を傍観していただけなのだ。いや、傍観していたのではない。たしかに私も競争に参加していた。ただ私は、自分の馬の手綱を、他人の手にゆだねていたのだ。私がしっかりとコントロールしていれば、きっと洗礼者ヨハネは死なずに済んだ。洗礼者ヨハネは、私が轢き殺したのだ。空虚で、無欲で、愚かきわまりない、この私が」  サロメは、倒れるような勢いで目のまえの窓枠へともたれかかった。  そのとき、ふと視線をあげると、遠くの丘に、ぼんやりとした白い塊が見えた。サロメは目を凝らした。白い服を着た人たちが、月の光に幽かに浮かびあがってきた。彼らは丘の稜線をたどって、館をさして歩いてきた。やがて館の門がひらかれ、サロメの目にも彼らの姿が間近に見えた。だぶだぶの白い外衣を着た五人組だった。五人は一塊になって門をくぐり、館の扉へと直行した。彼らはみなフードを被っていたので一人ひとりの表情は窺えないが、全員がどことなく悲しげであった。彼らの曲がった背中が、彼らの悲痛を物語っていた。  サロメが不審がっていると、ほどなくして彼らが出てきた。五人のうちの二人が木製の担架をかつぎ、その後ろにつづいて三人が粛々とした様子で出てきた。担架の上には、粗末な白い布に覆われた何かが載せられていた。サロメは、それが洗礼者ヨハネの遺体だと直感した。彼らはヨハネの遺体を引き取りにきたのだ。  彼らはみな重々しい足どりで、ゆっくりと門を出ていった。  サロメはその様子を見て、耐えられないほど苦しい気持ちになった。そして、窓枠にしがみついて、  「どうか私も一緒に連れていってください。お願いです。洗礼者ヨハネの死を償わせてください」  と叫ぼうとした。しかし、それは声にならなかった。そのかわりに、大量の涙が溢れ出てきて頬から顎へと流れおちた。嗚咽しているあいだにも彼らは来た道を戻って、暗闇の中へ消えていこうとしていた。  ふたたびサロメは悄然とした。やはり私は無力なのだ。自分の呪われた宿命から逃れることはできないのだ。声を出すことすらできない私に、いったい何ができるというのか……。足元がぐらぐらと揺れはじめたような気がした。  そのとき不意に、だれかの声がサロメの頭のなかに朗々と響きわたった。その声は、どこか遠くからやってきて彼女の頭に直接語りかけているようだった。そのありさまは、ちょうど太陽の光が曇り空の裂け目から差しこんできて地上の一箇所だけをあかるく照らすような、そんな感じだった。  その声は、こう言った。  「あなたは、あなたの意志で、わたしのあとについてきなさい。あなたの意志が、あなたを救うのだから」  だれの声か、わからなかった。だが、そんなことは今の彼女にはどうでもよかった。サロメの胸には一瞬のうちに、恐怖や興奮など、いろんな激しい感情が通り過ぎていったが、もうそれらは彼女の心をまったく動かさなかった。  サロメはおのずと夜空を仰いでいた。そして、彼女に語りかけてきた不思議な声の主にこたえようと、今にも窓から飛びださんばかりに前のめりになって、叫んでいた。  「私は、行きます!ここを抜け出て、あなたに従います!」  その瞬間、かつて経験したことがないほど充実した衝動が、サロメの体をつらぬいた。       (マタイによる福音書第十四章、マルコによる福音書第六章より)
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