1人が本棚に入れています
本棚に追加
『30年前──2092年4月7日、45歳の海老原様との同期を完了しました』
私が軽く現実逃避に走っているうちに、ドールの人工音声が同期の完了を告げた。
「おぉ、懐かしい……30年前の儂だ」
この同期の素晴らしいところは、見た目や声、感情ですら再現するところだろう。白い総髪にサンタクロースのような髭を持つ御年75歳の老人、依頼人の海老原様もこれで6回目だが、また感心している。
彼は日本経済界では知らない人はいない重鎮であり、50年前に起きた二度目の世界恐慌の影響で勃発した第三次世界大戦で荒廃した日本を、復興へ導いた一人とも言われている。
現在は隠居生活をしつつ、残された人生を謳歌しているようだ。
最初はそんな立派な人物には思えなかったが、彼が語り始めた人生を聞いているうちに印象は180度変わったと言える。
私は海老原様に比べたら30歳ほどの若造で、いわゆる戦争を知らない世代だ。そのせいか口述を聞き、まとめるために機器の文字盤を打鍵する指先に、無意識に力がこもった。
私はこの瞬間が好きなのだ。文字を打ちこむのは、幼少期にピアニストだった母の影響でやっていたピアノの鍵盤を叩く感覚に似ていて……人の一生という曲を弾いているような感覚になる。
志望動機とは違ったものの、私はこの仕事を気に入っていた。
そして海老原様の人生は、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」のように波乱万丈だった。貧しい家に生まれ、学業に苦労したらしい。そのためか、先ほど16歳の海老原様を呼びだしたときは──。
「金に物を言わせる権力者に搾取されない。誰もが経済的に苦労しない社会の実現、それが俺の夢だ!」
と、「少年よ、大志を抱け」の如く、熱い夢を語った。だが、今の日本の経済状況を見る限り、有言実行できたと言えるだろう。
続いて28歳の海老原様を呼びだした時は、世界恐慌の影響から各国で戦争が勃発し、日本も激動の時代を迎えていた。当時、彼は自身が立ち上げていた会社があったが、その経営を妻に任せ義勇兵として戦地へ赴く。
そこで体験した凄惨ともいえる体験は、是非とも後世に残すべきだと思った。海老原様自身もそう思ったのだろう。開戦から、戦中、終戦の時の自分をそれぞれ呼び出し、当時のリアルな感想を聞き出していた。
「ドール」は西暦の設定だけではなく月日まで指定することが出来るので、日付がわかれば特定の日の自分を呼びだすことも可能だ。
「あとは荒れた世界と人を癒すことに力を尽くそう……そして国に置いてきた家族も。家族の大切さを私は戦争で痛感した」
呼びだした終戦日の海老原様は、涙を流して喜んでいた。
その後、呼びだした35歳の海老原様は妻に任せていた会社の経営に戻り、規模を大きくして日本経済を回復させながら、子宝にも恵まれ順風満帆の人生を送り始めていた。
最初のコメントを投稿しよう!