50人が本棚に入れています
本棚に追加
中学二年の夏休み前に、五歳の子を連れた女性と再婚する事を聞かされたのだ。
以降、僕は隣町に住む母方のお婆ちゃんの家に住んでいた。
距離を置くようになった父親との苦い記憶を流し込むように、グラスに注がれた麦茶をぐっと飲み込む。
窓辺にやって来たスズメが、首を傾げて囀る。
僕と目が合ったスズメは、そのまま空へと羽ばたいた。風に樹々がざわめく。
夏の昼下がり、鳥の歌声をのせた青い風は、レースカーテンをふわりと持ち上げて、僕の前髪を揺らした。
奈緒さんに頼んで食器洗いをさせてもらう事にした。
畑仕事を終えた奈緒さんは、僕が料理を食べている間、スーツやシャツの裂けた部分を補修しようと頑張ってくれていたのだ。
流石に裂けて破れてしまった部分はどうにもならなかったが、シャツの千切れたボタンや、糸がほつれてしまった所は綺麗に修復してくれた。
「アキラさん、ありがとうございます。食器はそのまま置いておいてください。後で仕舞いますから」
水切りラックに並べ終えて手を拭いていた僕に、居間の壁――奈緒さんが手を伸ばして届くほどの高さに設置された棚から珈琲豆を取り出しながら言う。
「よくこの家を見付けましたねぇ」
椅子に座る僕の前に、アイス珈琲が置かれる。
一緒に出された白い陶器の小さなミルクピッチャー。
氷の浮かんだ珈琲にミルクが沈んで、ふわりとグラスの中を滲んで埋める。
まろやかで、程よく苦みもある冷たい珈琲が喉を伝う。
「変わった人に会って、驚いて崖から落ちたんです。そしたらイノシシに襲われて。うさぎが助けてくれて。それで……」
改めて言葉にするととんでもない一日だ。
妙な視線を感じ、不気味な女に出会い、イノシシに襲われているところをうさぎが助けてくれて。
今は、案内された先の小さな家で暮らす女の人と、こうして珈琲を飲んでいる。
地味で暗い人生を送って来た僕にはあり得ない程の一日の出来事に、急に不安になって言葉が濁る。
普通はこんな話、信じてくれないだろう。
だが、奈緒さんは怪訝な顔をするでもなく「そうでしたか」と、ゆっくり頷いた。
最初のコメントを投稿しよう!