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この家の風呂は薪で焚いたものだった。
表に積まれていた薪をくべて沸かした風呂は、身体の芯からじわりと固まった筋肉をほぐす。
ひとり暮らしを始めてからシャワーばかりな僕にとって五年振りとなる湯船の風呂は、言葉にならないほど気持ちが良い。
小窓からミンミンと蝉の声が降り、縁側に吊るされていた風鈴の奏でる音色が囁く。
自分がさっきまでコンクリート砂漠に居たことをうっかり忘れてしまいそうになる。
が、こうして思い出すだけで、僕の心臓はぎゅうっと握り潰されるような感覚になってしまう。
「えっ……」
まただ。あの妙な視線。
確信があるわけじゃないが、誰かに見られているような。
だがどういう訳か、今はそこに恐怖という感情は生まれない。
風呂からあがって、古い革張りのソファに腰を沈める。
と言ってもまだ緊張が抜けなくて、座面の手前にお尻を乗せて、もたれるのが申し訳なくて背筋を伸ばしたままなのだが。
部屋は一層濃い木の香りに包まれている気がした。
さっきまでは自分の汗と泥の臭いがきつかったせいだろうか。
乾いた土と木の香り。
おばあちゃんの家の匂いに似ているような線香の香りも感じるが、この部屋ではないらしい。
「女性物の服でごめんなさい。男性物は最近使う事が無くて押し入れの奥に仕舞っちゃって。怪我、見せてください。と言っても、簡単な手当てしか出来ないですけれど」
手の甲の血は止まっている。崖から落ちてスーツが裂けた時、一緒に背中と膝にも小さな切り傷が沢山出来ていた。
幸い大きな怪我は無さそうだが、身体のあちこちは黒い打撲痕だらけだ。
「はい、できた」と、奈緒さんが満足気に僕の膝に撒いた包帯を括る。
「ありがとうございます」
奈緒さんは木製の救急箱に絆創膏やガーゼ、包帯を片付けると、今度はキッチンに立った。
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