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 春日に温められた墓標が照り輝いては明滅し、手招いている。  旧友からの献花を飾ると、ちかりと光って瞬きを返した。その思いはきっと贈り主にも届いたことだろう。鎮静の中、ささやかな交友を見守った。  二人は並んで黙した。リディアは日々を見守ってくれる感謝を、アレンは彼女を守っていく覚悟を、それぞれ報せた。  しかし今の二人の様子を前にしては、畏まって居心地が悪く身じろぎをする義父の姿を慮った。アレンは前を歩くその背中に吐息をついて見上げた。  空はどんよりとして太陽を隠す、口数の少ない花曇り。まるで今の彼女のようだ。彼は付き従ってその後ろを仕方なく歩く。  ことの発端はこうだった。  リディアは一人墓参の旅に出るために、馬車へと乗り込んだ。その顔は少し浮かない。それは彼女の夫が、見送りに来られないという知らせを直前になって受けたからだった。急用では仕方ないと彼女もわかってはいたが、旅のためにひと月ほど彼と会えないことになる。できればその姿を一目だけでも見たかった。俯いて、吐息をひとつ零すと乗車した。彼女は、車内に一歩足を踏み入れたところで止まった。その視界に、誰かの足が映り込む。ぱちくりとまばたきを二回繰り返して、顔を見上げた。  「やあ、わが妃」  満面の笑みを浮かべて、鎮座ましましする夫の姿があった。  「アレン⁈どうしてあなたがここに!」  対面が叶わないと悲嘆に沈んだ気持ちを返して欲しい。リディアは嬉しい気持ちをすっ飛ばし、一瞬吃驚したのち、怒りのこもった目を剝いた。それなのに彼は、  「どうしたもこうしたも、君が行くところは俺も付いていくよ。それよりも、驚いた?」 と、にかりと笑って悪気がない。ものすごく嬉しそう。その様子に、彼女の肩がわなわなと震え出す。  「どうして事前に知らせてくれなかったのよ!」  欲しい答えが返ってこなくてアレンは少しむっとした。リディアの方は何かがぷちんと切れたような音がする。  「知らせたら君は旅程を変更するだろう?」  「当り前じゃない!あなたはこの国の最重要人物なのよ⁈危険の無いように最短の工程を組むわよ」  「それじゃあ意味がないんだ。俺は君が過ごした町に行きたいからね」  「とんでもない!そんなのだめ!警護の問題があるわ。あなたが行くなら、今からでも変えないと」  そう言って座席を立とうとした。  「それなら解決済みだ」  振り返った彼女が青い瞳を開けたり閉じたりする。アレンはにんまりと笑っていたずらっ子のような顔をした。残念ながらそれは彼女の怒りに油を注ぐものだった。完全に憤慨した様子で目を瞠る。彼女に黙って、こっそり企てたのがどうやら裏目に出たらしい。不穏な空気を感じ取った彼の顔が徐々に引き攣っていった。  「ひどいわ!話してくれてもよかったじゃない!私、あなたの顔が見られなくて落ち込んでたのに。それに、なんだか、これじゃあまるで私だけ蚊帳の外にされたみたいで悲しいわ!」  リディアはどっと泣き出してしまった。  「ち、ちがう!そういうことじゃなくって!」  君の驚く顔が見たかっただけなどと、口が裂けても言えない。アレンは慌てて肩を抱く。だが彼女は首を振ってはねのけた。 馬車はすでに走らせていた。蹄の音が窓外から洩れ、彼女の声が膨れ上がって響いて聞こえた。  それっきり彼女は窓の外に顔をぷいっと向けたまま、アレンに振り向くことはなかった。横に座ってみても、手を握ってみても、状況は悪化するばかり。車内はひえびえとした氷の室と化し、無数のつららがアレンだけをちくちく刺した。その冷気は俄かに車外に漏れ出し、王太子が何やらまたやらかしたと皆一様に溜息を漏らした。  リディアはときたま頑なな面を見せることがあった。一人で過ごした期間が、彼女をそう変えざるを得なかったのかもしれない。彼にはそれがわかってはいたが、一向に機嫌の直らない愛する人の隣は何とも居心地の悪いものだった。本当は新婚旅行気分を少しでも味わいたかった彼としては、大きな誤算である。  アレンは一人息を零した。仕方なく彼女の横顔を眺める。こんな機会も滅多にないだろうから、こうなったら穴のあくほど見つめてやる。流れる黒髪に、長いまつ毛、大きな瞳、小さな鼻梁、ぷっくり膨らむ口元…、睦言を交わす彼女はたまらなく愛らしいのにと、思考を乱してみる。リディアは俄かに身じろぎをした。最初の目的地に着くころには、アレンはそれらを完璧に描けるほどになっていた。  「妃殿下ゆかりの私塾へは、昼前には到着する模様です」  侍従は冷ややかな車内を見渡すと、そそくさと出て行った。  旅程では、オーレン侯爵の眠る庭園へと墓参したあとは、彼女の教え子が待つ私塾に立ち寄ることになっていた。そのあとは揚々と待つマルデレンを訪ねる予定である。  早朝に義父への挨拶を済ませたアレンは、ひとりほっと胸を撫で下ろした。対面はかなわなかったが、いつか直接出向いて許しを得たいと願っていた。それが叶って半ば勢いづいた彼は、リディアに向けて会話を試みた。  「君がいた頃の子たちはもう卒業しただろうか」  「5年以上経つわ。ほとんど在籍していないでしょうね」  ほどなくして帰ってきた彼女の声に、アレンは密かに一喜した。その横顔も僅かにほころぶ。  リディアの耳元に朗らかな声がこだまする。足元には、屈託のない笑顔を浮かべて彼らが集まる。はつらつとした陽気に包まれる教室。目を輝かせては自身の話に聞き入る彼らの顔が目の前によみがえった。  生と死の狭間でもがく彼女を、燦然とした彼らのあかりが照らした。苦くも辛くもあり、甘くもあったあの救われた日々を、彼女は今でも大切に胸にしまい、時にはその箱を開いた。彼女は彼らへの恩義を忘れずに持ち続けている。  傍らで見つめるアレンにもそれは伝わって、彼は目を細めた。リディアはその様子に気が付いて、ぷいっと更に顔をそむけた。その頬は僅かに朱色に染まっていて、纏っている空気も随分柔らかだ。その時、ちょど扉が開いた。  「お出迎え戴いたようです」  俄かに響いてきた幼い声に、二人は顔を見合わせてほほ笑んだ。つかの間の停戦がもたらされたようだ。アレンは揚々として彼女の手を取って、降りるのを支えた。  反面、さらりと夫の紹介を終えると、彼女は小さい彼らに目を向けた。おずおずと身じろぎして、皆一様にリディアを見上げる。彼女は微笑んで彼らの目線と合わせた。その横へ、誰かがそっと近寄った。  「リディア先生とお呼びすることをお許しいただけますでしょうか」  皺の深い顔をほころばせて、一人の男性が立っていた。  「塾長先生!お久しぶりです」  彼女の顔がぱっと弾んだ。  「お元気そうで何よりです」  そう言って一度言葉を切ると、感慨深いといった様子で頷いた。 「あなた様の行く末を陰ながら案じておりました。まさか、こんなに立派なお姿を拝見できるとは夢にも思わず」 と、彼は無邪気に手を広げてみせる。 「まあ!おおげさですわ!」 リディアはそう言ってころころと笑った。以前と変わらずに接してくれる彼の姿に、まるで教師時代に戻ったようで嬉しくなった。そして同じように感じていた塾長も、目元を潤ませてほろりと零した。  「ほんとうに、良かった」  リディアはその言葉にはっとした。あの頃は自分と向き合うのが精一杯で、周りがどのように自分を見ていたかなど考える余裕はなかった。まるで自分のことのように喜ぶ塾長の姿を見て、急に目頭が熱くなった。と、ぽろりと一粒零れ落ちそうになった時だった。  「私からも礼を言いたい」  半ばその存在を忘れかけていた。アレンが突然横から顔を出すや否や、深々と頭を下げた。リディアはひゅっと息を呑み込む。落ちかかっていた涙もひゅっと引っ込んでしまった。  「いえ、あの!頭をお上げください!」  塾長がしどろもどろで応えた。王族から頭を下げられて慌てない者などいないだろう。唐突な彼の態度に、忘れていた怒りが沸々と込み上げる。彼女が咎めようと口を開いた時、彼の言葉が遮った。  「あなたは彼女を導いてくださった方だと聞いている。彼女を見守り、生きる希望を見出す機会を与えてくれた。おかげで私は愛する人を失わずにすんだ」  そう言って彼は再び頭を下げた。  「アレン…」  彼は彼女をちらりと見てほほ笑むと、言葉を続けた。  「ずっとあなたにお会いしたかった。こうして直に感謝を伝えることができてうれしく思う」  彼の誠実な言葉に、リディアは引っ込めた涙を零した。  「言ってくれれば良かったのに」  そうであったら、何日もあんな態度を取らなかったと後悔をにじませる。アレンは彼女のすっかりなで肩になった肩を抱いた。そしてその横で、気を利かせてそっと下がっていった彼女の恩師に密かに目配せをした。  「君の怒った顔も可愛いと思って」  アレンは舌をだしておどけてみせる。リディアはその胸をぽかりと叩いた。だが口元は完全に緩んでいた。  「もうっ」  見上げると、愛しい人のまなざしに囚われた。その優しい手が彼女の頬を撫でた。  「言っただろ、君が背負ってきたものを半分持つって。そのためにはこの場所に来る必要があったんだ。ここ以外にも、君が過ごした家や、君が見ていた景色を肌で感じたかった。それに、はい」  彼がそう言うと、俄かに爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。首を傾げる彼女の口元に、蜜柑のひと房を彼が運んだ。眉を上げて促すアレン。リディアはおずおずとそれを口に含んだ。  「がんばったあの頃の君にご褒美」  彼女は困った顔をして、それでもはにかんで幸せそうに噛み締める。彼はその様子を満足そうに眺めた。  「あ、あともう一つ」  「んっ?」  アレンは咄嗟に彼女の唇を奪っていった。リディアは瞬いて、何が起こったのかわからずにいた。  「うん、甘い」  アレンはそう言って、ぴっと唇を舐めた。その言葉に、しだいに彼女の頬がぽっと色づく。  「君の未来は俺が守ってるから安心して」  アレンは過去の彼女に語り掛けた。  「ありがとう。アレン」  リディアは見上げると、目を細めてほほ笑んだ。青い瞳が朱色に染まって煌めく。アレンはたまらず口づけた。すると、近寄ってきた子どもたちが大きく声を張り上げた。  「あー!王子さまとお姫さまが!」  二人はぱっと同時に振り向いた。すると集まった子どもたちに、いつの間にかぐるりと囲まれている。離れた場所には必死で目を逸らそうとしている大人たち。その様子を見比べて、二人は思わず噴き出した。恥ずかしさと、可笑しさで笑いが止まらない夫婦につられて、子どもたちも笑いだす。眩しくて、思わず目を細めた。それはまるで、二人を祝福して燦燦と降り注ぐ太陽そのものだった。
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