第1章

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第1章

 それから十回の春がめぐった。  季節は夏の暑い盛りを過ぎた頃だった。王太子の姿は再び人の垣根の中にあり、今にも埋れそうだった。それをはらう人の姿はない。  彼の容姿を見た者は例外なく嘆息を洩らす。肩に落ちる白銀の髪に、すらりと伸びた手足。凛とした眉、そのすぐ下には切れ長の目。そして高い鼻梁。その顔は自信に満ち、晴れ晴れとしているかのように見えた。だが瞳に浮かぶ暗い影が彼の心を表していた。大抵の者はそれには気づかない。  アレンはもう長いことその状態だった。彼の唯一を失ったその日から。  悲劇は突然彼を襲った。それは否応なく彼の前からすべてを奪っていった。  たちまち混沌とした雲が湧き出て幼い彼の頭上を覆った。何者かが足を掴んで離さない。逃げ出そうともがく彼を暗闇が嘲笑って扉を閉めた。抗う力は次第に失せていった。その深淵にどっぷりと浸かったまま、穢れが自分を吸い尽くそうとするのをただ見ていた。  月日が経ち、より一層の深い闇が彼を取り巻いていた。  彼の実姉であるマルデレンは、数年ぶりにその姿を目の当たりにし、思わず息を呑んだ。大人になった彼は想像以上に輝きを失っていた。  もう誰にもその闇を取り除くことは不可能だろう。この国から嫁いでいく際、それは彼女の唯一の心残りだった。あの頃はまだ幼さがあり、かろうじて明るさを保っていた。きっと弟は自らそれを放棄したのだろう。  マルデレンは、諦めた目をした弟の視界に入るのを躊躇った。しかし帰郷に際し、彼女は弟を救う手立てを伴っていた。恐らくこの世で彼を救えるのはその者だけだろう。彼女は数年前、奇跡とも呼べる再会を果たしていた。この者は当初、弟との再会を拒んでいた。だが機は熟し、彼らを繋ぐ糸が自ら手繰り寄せ、その機会が訪れた。それを逃す手はない。  マルデレンは傍らをちらりと見た。その者は動揺を隠しきれないといった様子で深く頭を下げていた。  騙すような真似をして半ば強引に連れてきてしまった。「赦してほしい」彼女は心の中で詫びた。二人の幸せを一心に願っているのだ。どうかそれが叶いますように。一人微笑んで、マルデレンはその視界に足を踏み入れた。  「王太子殿下、お久しぶりでございます」  恭しく頭を下げる姉の姿があった。首を垂れてはいるが、ちらりと覗くその視線にはいたずら心が混じっている。  その顔に、昔たびたび姉に揶揄われては憤慨していた自分を思い出した。相変わらず、茶目っ気たっぷりな彼女の姿にアレンは苦笑した。  「姉上はお元気そうで何よりです」  弟は姉の帰郷を喜んだ。  「ええ、私はこの通り」  マルデレンは首を傾げておどけてみせた。アレンが平静を装っていると、彼女は「なによ、面白くない」とおちょくってみせたが、ひと言「すみません」と返したきりだった。  姉の気遣いを無下にしてしまった弟は思わず目線を下げた。すると小さな二人の存在に気が付いた。マルデレンのドレスの裾を掴んでこちらを見上げている。彼女の子どもたちだった。今年で七歳の王子と、五歳の王女の兄妹である。  「今回は彼らも一緒でしたね」  「三か月ほどの滞在だけど、その間よろしくね」  二人に目線を合わせて姿勢を低くしたアレンは「こんにちは」と言ってややぎこちなくほほ笑んだ。  努めて怖がらせないように振舞ってはみたものの、やはり子どもには伝わるらしい。二人の表情が強張っている。アレンは彼らへの接し方に慣れていなかった。  それでも二人は小さな声で、「こんにちは」と返してくれた。はじめは兄が、それに倣って妹が続いた。  きちんと教育されているのがうかがえる。アレンは彼らをお世話する者が優秀なのだろうと想像した。  兄は堂々としていたが、まだ小さい妹はおずおずとしていた。彼女が母のドレスを左手でつかみ、もう片方は誰かのスカートを掴んでいた。  お世話係だろうか。アレンはふとその姿が気になった。目線を上げるとその者は異様なほど頭を低くしていた。不思議に思って目を逸らさずにいると、彼女の髪は黒髪であることに気づいた。同じ色の髪が風に踊り、彼の脳裏を去っていった。胸が俄かにざわめく。アレンはその場から動けなくなった。  するとその女性の肩が僅かに動いた。彼女は何故か観念したといったように小さく息を零した。そして頭をゆっくりと上げ始めた。  閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。長いまつ毛の間から、煌めく青の瞳が現れた。アレンは思わず息を呑んだ。  あの春の空が目の前に蘇った。  「リディア…!」  「やっ」  驚いた彼女が小さく声を発した。気が付くとアレンは彼女の腕を掴んでいた。  細い腕から掌にぬくもりが伝わる。彼女が手を引いて振りほどこうとしたが、アレンは握った手の力を強めた。  見開かれた彼女の瞳の中に自身の姿が映っている。再び、それが叶う日がくるなんて。不意に目頭が熱くなるのを感じた。瞬くと、それが頬を伝って流れて行った。  傍らでじっと見守っていたマルデレンは、彼を覆いつくす闇が俄かに消え去るのを見た。闇は突如現れた光に照らされて、否応なく居場所を失ってしまったかのようだった。  二人の再会を、マルデレンは息を吸うのも忘れてただただ眺めた。その瞳にも光る物が滲んでいた。  ほんの僅かな間だが、時が長い時間止まったかのように思われた。だがそれを彼女の言葉が破った。  「離してください」  その声は僅かに震えている。  彼女は目を伏せて横を向いた。瞳に映ったアレンが瞼の奥に消えていった。久しぶりに聞いた彼女の言葉は彼を拒絶するものだった。それでも、彼に戻った光が消えることはなかった。しっかりと掴んだ腕をアレンは離そうとしない。  リディアは口を噤んで固く目を閉ざした。  「なぜ俺を拒もうとする。なぜ俺を見ない」  なぜそのような態度をとるのか、彼には分らなかった。リディアに詰め寄ろうとするアレンをマルデレンが止めた。  「アレン、そこまでよ。腕を離してあげて」  弟は姉の目を見た。それは彼を圧して、有無を言わせなかった。  彼の手の力が緩むと、リディアは咄嗟に腕を引いた。その様子をアレンは怪訝な表情で見つめた。  「リディアにも事情があるの。理解してあげて」  マルデレンの計らいでその場は一旦収められた。彼女に連れられて去っていくリディアを、彼は不承不承に見送った。胸がちりりと焦がれて苦しい。彼女への想いが、まるで息を吹き返したかのようにとめどなく湧き出て胸を押す。アレンは欲望に駆られて再び彼女の元へ飛び出しそうだった。  夏の日差しがじりじりと照り付ける。静寂の中、光と影が交互に足元へと落ちている。  「今日はもう下がりなさい」  マルデレンはリディアの肩を優しくさすった。包み込むような温かな眼差しが彼女をなだめた。リディアは小さく頷いた。  マルデレンの部屋から出たあとは、客間の続く回廊をあてどなく歩いた。自身の内に光を浴びて泡立つ感情と、まだ過去を引きずって暗く淀む感情とが交互に浮かぶのを俯瞰している。  十年ぶりに見た彼の顔が頭に焼き付いて離れない。暗い影を落とした瞳に光が満ち、輝く粒が湧いて零れ落ちた。彼の抱えていた苦難を垣間見たようだった。確かに自分の姿がそれを払拭した。俄かに胸が苦しくなってアレンを直視できなくなった。裏腹に沸き上がる感情の波があっという間に足元に押し寄せて、自身を攫っていった。想像していなかった状況に、自分の声がわからなくなってしまった。  きっと自分たちは旧友としての再会を果たすのだろう。和やかな雰囲気の中、幼い頃の思い出を語らう彼と自分。帰国が決まったのち、彼女はそのような場面を思い描いた。  けれども自分の心はそう穏やかではなかった。思い出す顔は朧げなのに、その存在を忘れられずにいる。今の自分はきっと、懐かしさと恋しさの見分けがつかなくなってしまっているのだ。そんな状態で彼に会えば、偽物の感情が自分を焚き付けて、思いの丈をぶつけてしまうかもしれない。不快な顔の彼を想像する。惨めな姿を晒すくらいなら会いたくなどなかった。  城に着くと、リディアは早々に召使の列に紛れ込んだ。だがその姿を侍女頭が見つけた。彼女はこの場に似つかわしくないおせっかい焼きだった。  「リディア!どうしてそんなところにいるの」  よく通る彼女の声がその場に響いた。今名前を呼ばれるのは避けたかった。彼女がもう一度自身の名を叫ぶ前にリディアが答えた。  「妃殿下に許可を戴いているの」  「でもご挨拶するべきよ。こっちへいらっしゃいな」  侍女頭はリディアがこの国の出身であることを知っている。自分が遠慮しているとでも思ったのだろう、彼女が親切心で声をかけてくれたことはわかっていた。  未だ自分の呼びかけに応じないリディアを怪訝な表情が見つめている。説明が必要だと思った。リディアは小さく吐息を零すと、彼女に近づいて行った。すると突然グイッと腕を引っ張られた。  「待って!」  慌てて足を踏ん張った。  「そんな暇なんかないわよ!」  リディアが話すのも聞かず、彼女はどんどん前へ進んで行ってしまう。あっという間にマルデレンの傍に立たされてしまった。挙句、お子様たちがリディアを見つけ、彼女のスカートを引っ張って離さない。リディアはマルデレンに助けを求めたが、「まあ、挨拶ぐらい」とにこやかに笑って見せ、先に進んでしまった。慌てふためくリディアをよそに、マルデレン一行は出迎えに来たアレンが率いる一団の前へと近づいていく。  足元には彼女にまとわりつくお子様たちが満面の笑みを浮かべている。彼らの笑顔にくぎを刺されたリディアは、その場から逃げられなくなってしまった。こうなれば極力目立たないようにするしかない。彼女は誰よりも深く頭を下げた。その様子がかえって彼女を目立たせてしまうとも考えず。  そしてリディアは刺さるような視線を向けられ、やむなく頭を上げたのだった。    リディアは茫洋として未だ歩き続けていた。そのせいで、後ろから近づく人影に気づかないでいた。彼女は再び腕を掴まれた。  「きゃあ!」  思いがけず大きな声が出た。恐る恐る振り返ると、今まさしく頭の中にいた人物がそこに立っていた。  「ごめん」  彼はすまなそうにしながらも、リディアを見つめている。彼女はその目線と合わないよう、下を向いた。  「離してください」 掌から伝わる彼の熱がリディアの心を乱していく。偽物の感情が瞼をあげた。  「少しだけでいい。君と話がしたい」  「私には恐れ多いことです」 胸が早鐘を打つ。一刻も早く、彼から離れたかった。  「リディア」  「失礼します」 リディアは彼の言葉を遮って強引に立ち去ろうとした。後ろ手に彼の腕を振りほどいて前へ踏み込んだ時だった。逆方向に腕が引かれて、彼の身体に近づく。彼女は思わず振り返った。抵抗する間もなく、その胸元が目の前にあった。アレンの腕が自分の体を強く包んで、彼女は息をのんだ。体がまったく動かない。まるで頭と体を繋ぐ糸が切れてしまったかのようだ。みるみるうちに視界がぼやけていく。アレンが肩で息をした。  「今夜、あの東屋で待ってる」  耳元で囁いた。  「行きません」  「ずっと待ってる」  アレンは一度腕の力を強めると、抱きしめていた腕を離した。名残惜しそうに、ゆっくりと。  呆然と佇む彼女を見つめ、アレンは愛おしそうに目を細めた。そのまま何も言わず、背を向けて去っていった。  「ずるい」  絞り出した声が震えている。きゅっと目を瞑ると熱い涙が頬を伝っていった。
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