第2章

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第2章

 うららかな日差しの中、幼い二人が人々の祝福を受けていた。頬をほんのりと紅く染めたリディアは、誇らしげな顔をしたアレンの差し出す手を取った。  二人が正式に婚約した十二歳の春のことだった。  同じ年に生まれ、幼い頃より共に育った。やがて王子の結婚が囁かれるようになると、彼はリディアとの結婚を進言した。  国王はこれを快諾した。  人々ははじめ、そのあまりにも早い決定に異を唱えたが王の一瞥が彼らを収めた。王子とリディアの仲睦まじい姿も相まって、その議論はやがて沈静した。  だがある男の目が二人をじっと見つめていた。  あの娘を屠れば、侯爵家の莫大な財産と地位が一度に手に入る。この浅ましい心に憑りつかれた男はリディアの叔父であった。彼女の父親はかねてよりこの不詳の弟に対する扱いに苦心していた。妾腹の子として生まれた弟は、周囲から温かな手を差し伸べられながらも、己の境遇に不満を持っていた。  その種ははじめ小さなものであった。自身でもその腹の内になぜそれが芽生えたのかはわからなかった。だがある時、その答えは唐突にやってきた。  ―あなたもお兄様のようになりなさい。  この言葉に嫌悪する自分に気がついたのだ。兄と比べられ、その言葉を聞かされるたびにその芽は育ち、いつしか宿主も手が付けられないほど大きく成長した。  いつからか、兄の自分を見る目に疑いを持つようになった。その目は偽善であり、実は自分を見下しているのだと思うようになった。それが憎しみへと変貌するのに、さほど時間はかからなかった。  兄からその地位を奪い、自分を見下したことを後悔させてやりたい。大きな闇が彼を覆いつくした。そして弟はその矛先を彼の娘にも向けた。    リディアは、叔父が密かに毒を盛ったカップに口をつけた。  その直後、カシャンという甲高い音が辺りに響いた。場の空気が一変し、人びとに動揺の色が走る。誰かの悲鳴が上がるとそこには、胸を押さえて倒れこんだ彼女の姿があった。人々が彼女を取り囲んだ。  男はその輪に加わったが心の中でほくそ笑んでいた。  これで欲しいものが手に入る。  事態が落ち着いたころ、悲しみに暮れる皆の前で、代わりとしてわが娘を差し出せばいい。それですべてが上手くいく。  だがその目論見は外れた。毒が混入される瞬間を見ていた者があったのだ。  「私はあの子の叔父だぞ!」  その言葉に人びとは躊躇した。その中で一人瞑目している者がいた。その者はやがて決意して目を開くと、国王の前に進み出た。  「この話はなかったこととさせてください」  国王は跪く侯爵の肩に黙して手を添えた。腹心の友が負う痛みを理解していたのである。  幸いにもリディアが飲み込んだ毒は微量であったため、命に別条はなかった。  その後、王が止めるのを断り、自らが治めていた領地を国に還した。災いの元を絶つためであった。  叔父は廃嫡され、一家は平民となった。そして元侯爵は幼い娘を連れて、この国を去っていった。  リディアの母方の縁戚を頼って、見知らぬ土地で親子は暮らした。以前とは比べ物にならない生活だったが、二人は互いを励まし合って生きようとした。  だがその翌年、父親が流行り病に罹り、帰らぬ人となる。母親はリディアが生まれてすぐに亡くなっていたので、彼女の肉親は誰もいなくなった。  「お前の幸せを願っている」  父親は死の間際、娘にその言葉を遺した。それが枷となり、かろうじてリディアの命をこの世に留めた。  自分は何故この孤独に耐え、生き続けるのか。何故、二度と会うことのない人を思って胸を焦がすのか。孤独の闇が耳元で囁き、その度に彼女は己の死について考えた。それでもいつの間にか眠りに落ち、気が付くと朝を迎えていた。まるで誰かが彼女に近づく死を遠ざけ、守ろうとしているかのように。  朝日が彼女を包み、起き上がったその背中を押した。泣き腫らした目をこすり、顔を洗い、身支度をし、誰もいない部屋の戸締りをする。  朝靄のなごりが漂う町の通りを歩いていると、誰かが彼女の元へ駆け寄ってくる。  「せんせい!おはようございます」  目を輝かせる子どもたちの前に立つと、リディアは彼らに生かされていると感じた。  縁戚のつてで、私塾の教師になった。最初は不慣れで戸惑うこともあったが、続けるうちにこの子たちのためにと思い励むようになった。彼女の努力が認められ、今では一つの教室を任されるまでになった。責任感が彼女を動かし、その心は少しずつだが明るさを取り戻そうとしていた。そんなある日のことだった。  「リディア先生」  授業を終えた彼女を塾長が呼び止めた。  「いかがされましたか?」  また親たちの苦情でも入ったのだろうか。ここには様々な事情を抱えた子が学びに来ている。学費はもらっておらず、子どもが学びたければ自由に入学できた。だがそれをよしとしない親もいるのだ。  ここは子どもに学ぶ機会を平等に与えたいと考えた塾長が、私財を投じて作った場所だ。子どもに家業の働き手を担ってほしい親からは、あまり良い顔をされない。そんな親から時々、子どもを奪っているなどと苦情が入ることもままあった。  「君に会いたいという人が来ているんだが」  意外な言葉に彼女は眉を上げた。  「ええ、どなたでしょうか?」  「女性なんだがな。君に会うまで名は明かせないと言うんだ。ひとまず会ってみてくれないか」  その口調には僅かに戸惑いの色が含まれていた。日頃お世話になっている塾長を煩わせたくはない。リディアは彼に促されるまま応接室に向かった。  「失礼いたします」  窓側にいた夫人がこちらに体を向けた。傍には二人の従者が立っている。彼女はリディアを認めると目を瞠って立ち止まったが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。その夫人の姿には見覚えがあった。リディアが思い出すより先に彼女が口を開いた。  「お久しぶりね、リディア」  「マルデレン様…」  木立の続く真っ直ぐな道を一台の馬車が邸に向かって走っていた。  マルデレンは五年前、隣国であるこの国に嫁いでいた。その彼女が夏の避暑地として、リディアが住むこの地を訪れているという。今年は四歳と三歳になる兄妹も一緒に連れて来ていた。  「二人のお世話係がもう高齢なの。今年はここに来る直前に体調を崩してしまってね。それで地元の名士に声をかけたら、あなたの名前が出てくるんですもの。驚いたわ」  幼い頃、マルデレンによく遊んでもらった。その頃と変わらない彼女の快活な声が懐かしくて胸に響いた。込み上げてくる思いがあふれ出しそうで、リディアは頭を上げられずにいた。  「この地にいる間だけでいいから」  マルデレンはそっと彼女の手を握った。優しい温もりが伝わってくる。人のぬくもりに飢えていた心がリディアの胸をつついた。  それでも彼女は頷くのを躊躇した。私塾の子どもたちと離れたくはなかった。彼女にとって彼らは、今やかけがえのない恩人となっていたのだ。だが同様に、マルデレンの頼みを受け入れたい気持ちもある。  迷った末、リディアは夏の間だけという条件で承諾した。それともう一つ、彼女はマルデレンにあるお願いをした。  「アレンには決して自分の所在を明かさないで欲しい」と。  それを聞いたマルデレンは戸惑いの色を隠せなかった。だが今は、リディアの助けになりたいという気持ちの方が強かった。彼女の心に寄り添いたかった。マルデレンはリディアの願いを聞き入れた。  しかし、事態は彼女が望んだ方へと転がる。  避暑地を去る間際になって、王宮の世話係が辞職したのだ。体調面が主な理由であったが、それだけではないようだった。避暑地で見つかったという臨時のお世話係の話は、当然彼女の耳にも入った。彼女は兼ねてから自分の進退について考えあぐねていたという。そこに突然現れたリディアの存在が、彼女を密かに決意させたのだ。リディアにとっては皮肉に思える事態となった。  マルデレンは一考したが、その申し出をあっさりと承諾した。そしてリディアにその事実を正直に伝え、返事を待った。  当然、リディアは困惑した。  理由のひとつは、マルデレンの子どもたちが意外にもよく懐いてくれたことだった。彼女がいないと夜は寝付かないという有様である。彼女が外泊し戻ってきた日には、目の下にクマを作った侍女と寝ぼけ眼の幼い兄妹が出迎えた。リディアは彼らの姿を見て自分の不在を詫びるほどだった。  もう一つはマルデレンの存在だった。この夏の間、彼女はリディアの心を癒そうと気を配り寄り添った。リディアはその優しさに触れ、次第に実の姉のように慕うようになった。その彼女が今、自分に頭を下げている。  断わることなどできるはずもなかった。  幸い彼女が懸念していた私塾については、マルデレンが後任を紹介してくれた。リディアは彼女に感謝した。彼らに会えなくなるのを考えると寂しかったが、心残りはそれだけだった。  新しい生活にリディアの心が俄かに弾んだ。マルデレンの侍女たちも気立ての良い者ばかりである。彼らもリディアを信頼して接してくれる。リディアにとっては、その彼らと共に過ごせる日々は楽しく、まるで家族ができたようで嬉しかった。心のどこかでそれを望んでいたのだ。  城の侍女として召し抱えられ、充実した日々を送った。お子様たちはすくすくと成長し、彼らとの絆もより深いものとなった。  アレンのことを忘れる日はなかったが、彼女の中で良い思い出になりつつあった。  彼が結婚したという話を神妙な顔をしたマルデレンから聞かされたが、彼女が心配するほどリディアは落ち込むことはなかった。彼女は彼が一人ではないということにまず安堵した。そして今の自分のように親しい人に囲まれて彼が笑顔でいることを思い、その幸せを願った。もう会うことはないが、心に残る彼への想いを抱きしめて生きて行く決意を固めていた。  だがそれから一年足らずののち、王太子妃は命を落とした。彼女は双子を身籠った。その出産は非常に危険なものであった。長時間の分娩の末に赤子は無事に生まれたが、妃は多量の出血のために助からなかった。  深い悲しみが再び彼を襲った。  マルデレンは弟を思い、里帰りを決意した。元々孫の顔を見せるつもりで時機をうかがっていたのだ。その期にちょうどリディアが居合わせた。彼女にとっては奇跡とも呼ぶべきめぐり合わせだった。  しかしリディアにとっては、その数奇さゆえに心を大きく揺さぶられるものであった。    月明かりが小さな頬を煌々と照らしている。長旅で疲れがたまっていたのだろう、兄君はあっという間に眠りに落ちた。一方の妹君はなかなか眠れずにしばらくの間しゃくりを上げて泣いていた。それもやがて疲れ果てて夢の世界へと旅立っていった。  リディアは袖の端を掴む小さな手をそっとほどく。二つの穏やかな寝息を耳にして、ほっと息をついた。  寝台の傍らで、彼女はしばらく幼子の寝顔を眺めていた。未だ定まらない気持ちがこの場に留めている。蘇ったその心は本物なのだろうか。臆病な自分が問いかける。頭で考えても納得のいく答えが出ない。リディアはその訳に気づいていた。 それは理屈では説明できない。  枝葉が揺れてざあっという音が通り過ぎて、彼女の意識を外に向けさせた。  アレンが待っている。  満ちた月の光が幼き日の恋心を明々と照らした。
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