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先生はずっとママを見ていた。
大人もこんなふうに恋をするのだな、と思った。ママといると嬉しそうで、ママとパパと一緒にいると悲しそうな顔をする。見ていて可哀相な程分かりやすい先生は、もちろん人妻であるママに気持ちを伝えることもなく、その隠し切れもしない想いをずっと燻ぶらせていた。
人妻に恋って、不毛だなと思う。パパとママが結婚して私が先生の生徒にならなければ、先生はママと出会うことすらなかったのに。恋に落ちた瞬間から終わっている。だってママとパパが別れることはないのだから。···ずっとそう思っていた。
「先生、この曲終わったら私やめようと思うんだけど。」
そう言うと、先生は目を丸くした。
「え、やめるって···ピアノ教室を?」
「そう。そろそろ受験だし。別に将来ピアノで生計立ててこうとか思ってないし。遊び感覚でお金使うの勿体ないし。」
「···遊び感覚って。」
先生は苦笑する。
「最近はもうママが私の送り迎えすることもないから、私がいてもいなくても変わらないでしょ。」
私の言葉の意味が分かったのか、先生は顔を赤らめて俯く。
「ねぇ、先生。ママと結婚したい?」
茶化すつもりはなかった。真剣に、私はそう尋ねた。
「史帆ちゃん、何言って」
「冗談じゃないよ。本気で聞いてる。」
誤魔化そうとする先生の言葉をかき消した。
「別にいいよ。先生とママが結婚しても。」
驚いたような顔をして固まった先生の瞳の奥が揺れる。
去年の春、パパが交通事故に遭って死んだ。
朝、いつもと同じようにパパと2人で家を出た。パパは駅へ、私は中学校へ向かう。その別れ道、いってらっしゃいと手を振りあった直後に、パパは信号無視をした車に撥ねられた。ぶつかる音で振り向いた私は、道路に人形のように横たわるパパの姿を見て一歩も動けなかった。
朝、忘れ物をした。体操服を忘れて、玄関先でパパを待たせた。遅刻しちゃうよ、と言うパパを私は待たせた。パパと一緒に行きたかったから。私が忘れ物をしなかったら、パパを待たせなかったら、パパが事故に遭うことはなかった。
ママはパパより若くて、姉には見えないけれど母にも見えない、そんな外見をしていた。「史帆ちゃんのママ、美人だね」友達からそんなふうに言われるのも日常茶飯事。にこにこしてどこか抜けているママからパパは目を離せない。周りの人もママといるとにこにこしていた。そんなママのことを先生はずっと見ていた。たぶん、私が先生のピアノ教室に通い始めたその日から。
先生はママの1つ年上。元ピアニストらしい。自宅の1室を使ってピアノ教室をしている。私が通い出したのは幼稚園の時。初めて会った日から先生は、ママと話す時だけ背筋が伸びる。声が少し大きくなって、誰に向ける笑顔よりも優しい顔をする。そんな不毛な先生の片思いはそろそろ10年になる。彼女がいたかどうかは分からないけれど、1度も結婚することなく先生はママを見続けていた。
「次のレッスンで最後だね。」
「史帆ちゃんと出会ってもう10年なんだね。毎週会ってたから、寂しくなるな。」
柔らかな目元。寂しげに笑って、先生は楽譜を閉じた。
「次のレッスンの時、ママがお礼言いに来るって。」
そう言うと、先生は閉じたばかりの楽譜を床に落とした。本当に分かりやすい。
「私を口実にして良いからさ、ご飯とか誘ってみたら?」
落ちた楽譜を拾った先生は、顔を赤らめて俯いている。
「···史帆ちゃん。この前から、本気で言ってる?」
「冗談でこんなこと言うわけないじゃん。」
「···そう、なんだ。」
「先生。たぶんこれが最後のチャンスだよ。」
先生を焚きつけるのに私も必死だった。
最後のレッスンの日、先生はなんとかママを食事に誘った。私も一緒に、そういう約束だったらしいけれど、もちろん当日私は適当に理由をつけて行かなかった。普段より少しオシャレをして家を出て行くママの後ろ姿を見て、達成感と安心感が湧く。これで良い。これで良いんだ。
それからママと先生は何度か一緒に出掛けて行った。初回こそ夜だったけれど、その後は昼間だけ。先生のレッスンがない平日の昼間、変則勤務のママが休みの日に食事に行ったり遊びに行ったりしていたようだった。
「どうして史帆ちゃんは来ないの?」
レッスン最終日に交換した連絡先。日曜日の午前中、誰もいないピアノ教室に来るように言われて、久しぶりに中に入った。
「いない方が良いでしょ?」
笑ってそう答えると、先生は珍しく怖い顔をした。
「僕は、史帆ちゃんを除け者にはしたくない。史帆ちゃんのお母さんも史帆ちゃんも、どっちも大事なんだ。」
真剣に言う先生を見て、ほんの少し心が痛んだ。
「2人でいる時も‘史帆ちゃんのお母さん’って呼んでるの?」
茶化すように言うと、先生は怒った顔のまま顔を赤らめる。
「···それは、違うけど。茶化さないで、史帆ちゃん。」
「あはは、ごめん。先生がそう言ってくれるのは嬉しいけどさ、私受験生だし。親のデートに付き合う程暇じゃないんだよね。それに、先生がどんな人がだいたい分かってるし。先生なら、ママの再婚相手になっても大丈夫って私が言い出したんだよ。別に心配してついて行く必要もないじゃん。」
先生の顔が、緩んでいく。怒られたのは、今日が初めてのような気がする。10年間、先生は1度だって怒りの感情を私に見せたことはなかった。いつも優しい。優しすぎて、少し頼りないくらい。
「今度、史帆ちゃんの家に行くことになっているんだ。史帆ちゃんのお母さんが昼ご飯ご馳走してくれるって。休日だから、史帆ちゃんもいてくれる?」
その表情を見て、私の家に行くことを提案したのはきっと先生なのだろうなと思った。
「···別に、良いけど。」
答えると先生は嬉しそうに笑う。難しい曲を弾けるようになった時、こんなふうに笑って褒めてくれていた。それを思い出すと少しだけ、苦しくなった。
「良い雰囲気になったら消えるから。私がいなくなったら存分にイチャイチャして。」
心の中を隠すように笑って言う。先生はまた顔を赤らめる。
「史帆ちゃん!」
少し大きな声を出す先生を見て、私は声を出して笑った。
『この前、プロポーズをしたんだ。』
電話越しに先生は言う。
「そうなんだ。ママ、なんだって?」
『何も聞いてない?』
「うん、聞いてないよ。」
『···そっか。結婚、してくれるって。』
その声は落ち着いてはいるけれど明るい。
「そうなんだ。おめでとう、先生。」
『ありがとう。史帆ちゃんのおかげだと思ってる。』
「あはは。じゃあ今度ケーキでも奢って。」
笑ってそう言うと、先生も声を出して笑った。
『史帆ちゃんの入学前には入籍するつもりなんだ。ぎりぎりになってしまうけど、入学の時には名字が変わっていると思う。』
「そっか。じゃあまだ高校の物に名前書くのやめとくね。」
『うん、ごめんね。』
「いいよ。ていうか先生、もしかして私の受験が終わるまでプロポーズするの待ってたの?」
『いや、まぁ···うん。落ち着いてからの方がいいかと思って。』
優しいな。先生は出会った時からずっと優しい。もっと早く、ママじゃない誰かと結婚していても不思議じゃない。先生にとってはその方が良かったのかもしれない。私は、先生がいてくれて良かったと思っているけれど。
「先生、いろいろありがとね。」
チリっと焼き付くような罪悪感が、見え隠れする。でも隠しておかないと。罪悪感でいっぱいになってしまったら、きっと私は前に進めなくなる。
『僕の方こそ、本当に史帆ちゃんに感謝しているよ。』
ごめんね、先生。
卒業式の3日後。卒業祝いにと、先生がケーキ屋さんに連れて来てくれた。
「明日、婚姻届を出そうと思うんだ。」
飲んでいたコーヒーのカップをテーブルに置いた先生はそう言った。
「そっか。ママのこと、大事にしてくれる?」
「もちろん。」
即答する先生の顔は、生徒としての私に向ける顔ではなかった。
「史帆ちゃんのことも、大事にするから。」
先生は、私の家族になろうとしている。
「あはは、ありがとう。」
そう、軽く笑って答えた。
「史帆ちゃん、本当にありがとう。」
先生は頭を下げる。また少しだけ、罪悪感が湧いた。
「ううん。私の方こそありがとう。」
大丈夫。こんな罪悪感に私は負けない。
パパが死んで2年が経った。2年も経ってしまった。長かった。とても長かった。
本当はすぐにでもこうしたかった。
ーーー史帆。ママは寂しがり屋だから。一人ぼっちにしないであげて欲しい。
パパとの約束だった。いつだったか、パパは真剣な顔でそう言った。
「入るわよ。」
部屋のドアがノックもなく開く。ベッドに仰向けになったまま、顔だけドアの方に向けた。
「婚姻届、出してくるから。」
先生が車で迎えに来て、一緒に市役所に行くと言っていた。
「うん、分かった。杏奈さん、おめでとう。」
笑ってそう言うと、驚いたような顔をした。
こんなふうに、普通の親子みたいな会話をしたのはいつ以来だろう。
車が走っていく音が聞こえる。その後は、静かだった。私しかいない。
ーーー史帆、大好きだよ。
目を閉じると、今でもパパの顔が鮮明に浮かぶ。うん、私もパパのことが大好き。
先生とママが結婚したよ。
ママを守ってくれる人が出来た。ママに家族が出来た。これでママは一人ぼっちにならない。だから、私がここにいる必要はなくなる。パパとの約束はちゃんと守ったよ。
これで、今日から私は自由だ。
ーーーごめんね、史帆ちゃん。
あの女は、言った。
ーーー私、子どもが嫌いなの。
笑って言ったんだ。
ーーーだから私とあなた2人の時は、話しかけないでくれる?
‘良い母親’を演じるのがとても上手だった。誰も疑わなかった。パパさえも。
パパがいない時、食事を貰えないこともあった。わざと外に閉め出されたこともあった。話しかけても返事は返って来なかった。
子どもが嫌いなら、子持ちのパパと再婚なんかしなければ良かったのに。
私が先だ。私のパパだ。邪魔なのは、あの女の方だったのに。
パパのことが大好きだった。パパが私の全てだった。だから我慢した。パパが結婚した人だったから。パパが幸せそうだったから。
でもどこかで、気づいて欲しいと思っていた。
パパと歩いた道をなぞっていく。ここで手を振って別れた。ここで、大きな音が聞こえた。ここで振り返った。倒れたパパはもう動かない。
ごめんね、助けられなくて。ごめんね、死なせてしまって。
外が暗くなっていく。歩いて来るには遠すぎる隣町までやって来た。長い長い橋の真ん中。覗き込んでも底は見えない。暗闇に吸い込まれそうだった。
ポケットの中でスマホが振動している。さっきから鳴り止まない着信。立ち止まって画面を見ると、着信とともにメッセージがいくつも届いていた。
『史帆ちゃん、どこいにるの?』
『史帆ちゃん、連絡下さい。』
『史帆ちゃん、一緒に夕飯食べよう。』
『史帆ちゃん、帰ってきて。』
鼻の奥が、ツンとした。先生は、優しいね。私は、先生の恋を利用したのに。
通り過ぎる車が途切れた。欄干に手を掛ける。この川は深くて流れが速い。ここなら大丈夫。きっとうまくいく。
あの女はもう大丈夫。先生がそばにいる。
ねぇ、だからパパ、
今そっちに行くね。
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