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スマートフォンに触れたまま悠多の指は躊躇する。階下にいる役者の女を見たい。見たいが……。見てしまって本当にいいのだろうか? 得体の知れないものに、こちらが気づかれたら一体どうなってしまうのか……
恐れはあったが、しかし悠多は好奇心に勝てなかった。
悠多はスマートフォンを持ったままの、床の上にある右手をそろりそろりと自分の頭の方へと移動させる。
≪……また板に立てるなんて……≫
女のぼんやりとしたその姿はステージの中央あたりに見える。
悠多は暗闇の中スマートフォンの明かりを点け、自分の真下の下手側に明かりをかざしてみる。わざと明かりをずらし、徐々に女に近づけていくつもりだった。
しかしーーー
≪誰⁈≫
女が一瞬だけ、顔を悠多の方に向けた。薄暗いなかであったが、女の眉根を寄せた悲し気な表情に、悠多は釘付けになる。が、女はすっと俯き、素早く蹲り白っぽいかたまりのようになる。
≪誰なの⁈≫
悠多は答えずに、遠慮なくスマートフォンの明かりを女へ向けた。
≪誰だか言って≫
女の言い方には迫るものがあった。動揺する悠多。
「俺は……」
≪わかった。役者…、役者なんでしょう……≫
「い、いや、違う……」
≪なんだ、役者じゃないの。まあ、男優だったら、役はかぶらないか≫
「ったく、女優って奴は……。俺は…、役者だった」
≪だった⁈ ふうん……やめたの? 役者≫
「あ、ああ……」
≪フン。簡単にやめるなんて。それなら、ここはあたしのものね≫
「おいっ! ここは俺の劇場だ。それに…、俺が役者をやめたのは、簡単にじゃない。色々あって……」
≪色々……どんな? 役者をやめてしまえるような?≫
「そ、それは……」
≪あーーー、あああーーー、あえいうえおあおーーーあーあーあーーー≫
突然立ち上がり、発声練習を始める女。
「やめろ!」
≪あなたとの会話は時間の無駄。あたし、稽古するから≫
「俺は劇場主だ。今すぐここから、」
女がすっと姿勢を正したのがわかる。白く細い指が上へ、悠多の方へ伸びーーー。悠多は「出ていけ」という言葉を飲み込んでしまう。
≪ああ、わたしは虹になりたいーーー≫
悠多ははっとする。思わず身を乗り出し、耳を澄ます。
≪虹に、に、じ、に、……虹に、虹に、な、り、た、いーーーたとえ都会の、と、か、い≫
「そう、それ! それ、なんの台詞?」
≪ふふふ……≫
悠多はたまらなくなって、逆さにしていた上半身を3階の自室の床に戻し、素早く体を回転させ、はしごを一気に降りる。そこは下手側のキャットウォーク。
悠多の気配を察し、女が叫ぶ。
≪来ないで!!≫
女はステージを上手側へ逃げる。
悠多はキャットウォークから身を乗り出し、スマートフォンの明かりを女へ向ける。
「どうしてここで稽古する?」
≪えっ。そ、それは……≫
「あんたはいったい何?」
≪い、痛い……痛いよぉ……≫
悠多はキャットウォークの柵を乗り越え、ステージに飛び降りる。
女は嗚咽を残し姿を消す。
真新しい板の上を転がる悠多。足への衝撃がジンジンと体を昇っていき、苦痛で顔を歪める。
女の嗚咽は次第に遠くなり、深夜の静寂が戻ってくるーーー
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