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しかし、光希ははたと体の動きを止める。
「ん? 靴下じゃ無理か? 足袋だっけ、あれ履くの?」
「いや、こうやって履くんだよ」
悠多は痛くない方の右足の親指と人差し指の間を、雪駄の鼻緒に差し入れる。突っ掛けるという感じ。慣れたものである。
「へえ。器用だなぁ。けど、靴下伸びるよなぁ」
思わず、大笑いする悠多。それは久しぶりのことだった。
「そんなに笑うか?」
「いやいや、慣れちゃうとなぁ。だけど、俺も最初履いたときはそう思ったの思い出した。実際靴下ここだけ伸びてるワ」
悠多は右足の雪駄をパタンと床に落とし、足をちょっと上げて、靴下の中の親指と人差し指をもぞもぞと動かして見せる。靴下のその部分が少々伸びている。
「なーんだ」
光希も笑う。悠多は自分が久しぶりに笑ったことに気づく。笑いながら、
「スタッフって雪駄履く人けっこういるんだよ。大道具さんとか照明さんに多いな。舞台監督は絶対履いてる」
「業界あるあるか。だけど、悠ちゃんは役者だったんだろ」
「うちみたいな弱小劇団は役者も裏方手伝わないと、色々まわらないからな。それで履いてみたら、いいんだよー、雪駄」
「なるほどー。俺も履く」
光希は大げさな動作で悠多の雪駄を取り上げ、履いてみせる。うわ、やっぱ靴下伸びる、と言いながら立ち上がる。おしゃれな黒いエプロンに雪駄を履いた光希のすっきりとした立ち姿は、そういうファッションに身を包んだ、まるでモデルのように見える。
「うわぁ、マジかよ。ファッション雑誌か、お前は」
「は?」
「スタッフさんはなぁ、目立たないように全身黒着て、雪駄なんだよ…、あー、やんなる……」
「何言ってる? 悠ちゃん」
「すみませーん」
とロビーに響く声がして、悠多と光希は事務所の開きっ放しになっている扉の向こうへ視線を遣った。
劇場の扉を半分だけ開け、半身を覗かせている男が見える。慌てて椅子から立ち上げる悠多。左足に痛みが走るが、堪えてロビーへ出ていく。悠多には声の主がわかったのだ。
光希は、悠多の表情が強張ったのを見逃さない。
「悠多さん、いたいた」
「松本ぉ。お疲れ」
光希も事務所を出てロビーへ行くと、悠多の前に松本と呼ばれる若い男が立っている。整った顔立ち、華やかな笑顔で悠多と話している。一目で、一般的に働いている男ではなく、演劇の人なのだろうと思う。
「悠多さん、この度はおめでとうございます」
松本は深々と頭を下げ、それを戻したあと、大きな横長の手提げ袋を悠多の方へ差し出す。立派な花籠が入っている。
「劇団からです」
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