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悠多は、劇場の建物1階の両扉の上部に付けた立体文字「シアタースイート東京」を睨らんだ後、劇場事務所に鍵を取りに戻る。
鍵をかけ出掛けようとすると、嫌でも向いの弁当屋が目に入る。すでに今日の弁当は売り切ったようで、クローズの札が掛かっていた。
通りを国府台駅の方へ下っていく悠多。駅の手前で通りを渡ると、地元の人しか知らないような細い階段がある。悠多はそれを駆け上った。あと数段というあたりで江戸川が見えてくる。
劇場から江戸川の土手に出るまで5分もかからないが、悠多がここにくるのは随分久しぶりのことだった。
川下の方向から吹いてくる強い風に、まるで背中を押されるように悠多は土手の上を川上へ向かって大股で歩き出す。子供のとき、柾や光希と遊んだことが蘇ってくる。
あの柾が結婚か……
そういう年齢になったのだ。光希の結婚もきっと近いことだろう。なにしろ常に女子に囲まれているのだから。
悠多は立ち止まり、川面とその向こう側の東京を見た。
川の対岸は江戸川区。住宅が広がっていて、ポツンポツンと背の低いビルが混じっている。その先に鉛筆を立てたような、ちっぽけなスカイツリーが霞んで見える。
悠多には、その風景の先に無限のように広がる東京の、数々の劇場が見えてくるようだった。それらの中のいくつかの板の上に自分が立った感覚が全身に蘇り、居ても立っても居られなくなる。川向こうへ、何か台詞を発声したいくらいに……
ウォーキングをする老夫婦がやってきて、悠多をチラリと見ていく。
咄嗟に足首と手首を回し、悠多はランニングを始める風を装った。それから、本当に川上へ向けて走りだす。鈍った体にはきついが、それがかえって今の悠多には心地よく感じられる。
そういえば…、あいつらに神棚のこと訊けなかったな。
悠多は神棚のことを思い出したが、こうして肉体に負荷を与えていると、ステージから聞こえてきた女の声は幻だったんじゃないかと思えてくるのだった。
※演劇用語解説
【板(いた)】 ステージ、舞台のこと。木材で出来ていることからきた言葉だと思われます。
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