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プロローグ
人の、それも女の涼しいような声が聞こえた気がして、甘井悠多は招待リストから目をあげ耳を澄ました。しかし、女の声など聞こえない。この小劇場の前を通る車の音が聞こえてくるだけだった。なんだ、気のせいか。ここのところ、劇場オープンの準備で忙しかったから、疲れているのかな、と悠多は思った。
≪ああ、わたしは虹になりたいーーー≫
再び女の声が聞こる。悠多の肩にきゅっと力が入った。
≪たとえ都会のビルとビルの間の、せまい空だとしても、わたしがチラチラ、チラチラと輝く七色の半円を広げれば、きっとあなたはわたしに気づいてくれるーーー≫
聞こえてくる女の声はよく通り、涼やかで心惹かれるものだった。悠多は天井を見つめる。声は2階から聞こえてくるようだった。2階には、ステージと客席がある。どこかの劇団の女優が勝手に入ってしまったのだろうか。オープンは明日だが、日にちを間違えて、来てしまった? でも、おかしい。どうやって入ったのだろう? こうして自分が1階の入り口付近にいたというのに……
≪あー、あー、ああーーー、あえいうえおあおーーー≫
クソッ。発声練習まで始めやがった。悠多は舌打ちをし、2階への階段を駆け上がる。防音の施された重いドアは開けたままだったので、悠多は勢い込んで客席に入った。
「ちょっと、オープンは明日なんですよ!」
女の声はすすり泣きに変わっている。
客席の後部座席の間にある通路に立つ悠多。その背中へは、外の階段踊り場のガラス窓から射すわずかな光が当たっている。
薄暗いステージには誰もいない。悠多は客席を走り抜け、ステージに飛び乗った。上手の袖を見て、下手の袖を見て、ホリゾントの裏を覗き、上の照明機材の間に目を凝らしても誰もいない。
≪うっ、うっ、ううう……≫
すすり泣きは続いていて……
まるで、悲しい爬虫類が悠多の肌を滑っていくように感じ鳥肌がたつ。身震いする悠多。次第に女のすすり泣きは遠くなってゆき……
悠多は照明のついていない暗いステージ中央に立ち尽くすのだった。
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