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生涯ただひとり、あなただけを
一般席に下りてくると危ないので、俺がそちらに向かいます、とエドワルトがユスティアナに叫ぶ。
あらかた客が退出した頃合いになって、貴賓席に姿を見せたエドワルトは、事の次第を生真面目な口調で語った。
「急病ではないんです、本当は。開幕直前、『アドリアーナが舞台に立ったら、客席から射殺する』と投文がありました。持ち物検査などしていないので、もし相手が本気だった場合は……。アドリアーナは舞台に立つと言ってきかなかったんですけど、座長として中止を決断しました。明日は、入り口で手荷物検査をすればできないことも無いかと思うんですが……。懸念といえば、貴賓席側の客はおそらく検査などには応じないであろうこと。そしてこの投文をしてきた相手が、たとえば貴族だった場合、撃たれた後に捕縛はできるかもしれませんが、撃たれること自体は避けられないかもしれなくて」
今日のエドワルトは、ドレスシャツにベストを合わせた小綺麗な装いで、男装。長い金髪を束ねた横顔はひどく端正で、アドリアーナの面影はあるものの、男性に見える。
はじめて目にしたその出で立ちに落ち着かないものを感じつつ、ユスティアナはさきほどの自身の「淑女らしからぬ振る舞い」には触れられぬよう、話を進めた。
「ずいぶんと悪辣ですこと。この一座にそれほどの嫌がらせをする貴族階級といえば……、グレン子爵」
浮かぬ声でその名を出すと、エドワルトは深く頷く。
「もともと、あの方は大変ガラが悪い。裏街の勢力と結びついているとの噂はありました。それがここにきて、子爵の暴走で王家の不興を買い、一気に捜査の手が入ったのでしょう。その腹いせなのか、とは思いますが。評判を落とされるのは痛手ですが、挽回はきく。しかしアドリアーナの命を取られるとあっては」
「わたくしのせいだわ。慎重に捜査を進めているところに、わたくしへの不敬を理由としていくつかの権限を解放したの。官吏の動きが派手になったせいで、従順にやり過ごすことを諦め、敵対行為に出たと……。でもまさか劇場へ脅迫だなんて。たしかにわたくしには何よりの痛手ですが」
悔しげに呻くユスティアナに、エドワルトはほんのりと笑った。
「お客様を人質にとられなかっただけ良かったです。しかし問題は明日の公演ですよ。アドリアーナは自分のせいで休演にはできない、なんとしてでも演じると言うでしょうが、俺は座長としても兄としてもそれを認めるわけにはいきません」
耳を傾けていたユスティアナは、目を瞠った。
「休演に責任を感じているということ? 狙われているのがアドリアーナさんなら、オフィーリアには代役をたててはいかが」
「オフィーリア役や、立ち位置の近いクロード役が一番危険なんです。アドリアーナは滅多な相手にそれを任せることはできません。たとえ俺でも」
「わたくしでは?」
「今なんと?」
聞こえなかったわけではなく、理解ができなかったという風情で、エドワルトはユスティアナに問いを返した。
ユスティアナは力強く答える。
「わたくしがオフィーリアを演じるのはいかがでしょう? わたくしを狙い撃ったら、それこそ子爵の手のものは一族郎党にいたるまでしょっぴけます」
「撃たれてどうするんですか、お姫様」
エドワルトは、激しい口調で即座に言い返した。
予期していたユスティアナは、わかっています、と言わんばかりに話を続けた。
「聞いて、エドワルト。もちろん撃たせない。わたくしが舞台に立つとなれば王宮の警備隊のかなりの数をこの劇場に割けます。大々的に情報を流しておけば、それだけで相手を諦めさせることができるかもしれません」
「こんなことに警備隊を動かして、王宮をもぬけの殻になんてして、そちらで何か問題があったらどうするんですか」
「大丈夫です。王宮にはまだまだ余力があります。それにこの件、わたくしの容赦が無い方の兄が動いているので、今日にも子爵の資金や私兵に致命傷は与えられるはずなんです。なので、明日の心配もそこまでありません。ただ念には念を、です。明日の晩のオフィーリアが第二王女とあらば、完璧に相手のやる気をくじけるという、ただそれだけの話です」
強引にたたみかける。強引さには気づいているようで、エドワルトは腕を組み、天井を仰いで考え続けた。
やがて、深いため息とともに頷いた。
「休演は回避したい。アドリアーナの出演も回避したいとなれば、代役をたてるしかないわけですが、この状況でなんの保証もないうちの役者たちに『命を張れ』と俺は言いたくない。姫様がそこを埋めてくれるというのなら……。しかし姫君が舞台にだなんて、聞いたことがありません」
ちらりとまだまだ絶賛迷い中の目を向けられ、ユスティアナは満面の笑みを浮かべる。
「我が国の民と文化を守るためですもの。王宮側はきちんと説得してきます。大丈夫です、わたくしの突飛に見える行動に関しては、これまでも理解を得られるよう努めてきました。劇に関しては、セリフは全部頭に入っています。動作も克明に覚えています。発音や声量にも問題ないかと。アドリアーナさんほど際立った容姿ではないですけど……」
声が小さくなったところで、くすっとエドワルトが楽しげにふきだした。
「姫様は可憐です。舞台の上からあなたの姿を遠くに見るのが、俺には本当に楽しかった。まさかこんな風に話す日が来るなんて夢にも思いませんでしたが」
「あら、エドワルトも実際の舞台に上がることもがあったの? 気づかなかったわ。なんの役?」
「俺がするとすれば『アドリアーナ』役です。舞台閉幕後の挨拶のときだけ。一度、舞台の袖でアドリアーナが男にかどわかされそうになって。グレン子爵のような手合が無理やり入り込んでいて。それからは、念のため俺がそこから代わっていたんです」
紺碧の澄んだ瞳が、まっすぐにユスティアナを見る。
(この目。何度も……何度も目が合うと思っていた「アドリアーナ」さんは、エドワルトだったの)
胸の奥で、何かがかちりと嵌まった。
腑に落ちる? いえ、違う。もっと違う何かが、まっすぐに落ちてきた。血が沸き立つほどの熱さと、心臓が締め付けられるような痛みを覚える切なさと。
その思いは、ユスティアナの表情に変化となって現れたはず。無言で見つめていたエドワルトはすっと視線を逸らして、貴賓席からの光景を視界におさめるような動作をした。
舞台を見つめて、響きの良い声で言う。
「姫様が劇場の舞台に立ちますか。明日はこの国の演劇の歴史を変える一夜になるかもしれません。そんな身分の超え方があるだなんて、俺は考えたこともありませんでした」
「いまからすっごく楽しみです!! 明日は朝から練習にきていいですか? それとも今日この後でも。クロード役の方や他の方にも挨拶をしたいです!!」
俄然乗り気ではしゃぎだしたユスティアナを振り返り、エドワルトは軽やかに告げた。
「クロードは俺が演じますよ。もし明日、姫様が狙われるようなことがあったら、身を挺してお守りする所存です。一番近くにいられるのは、従者で恋人役のクロードをおいて他にいませんから」
ソファに腰掛けたままのユスティアナの元へ、ゆっくりと歩いてきて跪く。
その手をそっと取って、甲に口づけをしてから告げた。
「『オフィーリアさま。この命、あなたに捧げます。生涯ただひとり、あなただけが我が主』」
エドワルト本来の低い声が、甘く響く。
けぶるようなまなざしが、ユスティアナに向けられる。ユスティアナは真剣な目で見つめ返して、セリフを口にした。
「『クロード。ああ、あなたはなぜクロードなの。どれほどの愛があっても、私とあなたを阻む壁がある。身分というこの忌まわしき……』」
「『壁など』」
くすりと笑ったエドワルトが立ち上がる。
(熱い、抱擁……!)
まさか本当に? ここでしてしまうの? あなたとわたくしが? といくつもの問いかけをのせて目を見開いたユスティアナを見下ろし、エドワルトはいたずらっぽく微笑んだ。
「この続きは明日、舞台の上で。よろしく、俺の姫様」
そして「今日あれだけ見事に立ち回ってくれましたからね、期待しかないです。本当に、最高でした」と続けて、声を上げて笑った。
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