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ずっと、彼のことを尊敬していたつもりだった。世界を救うため、この世で最も役に立つ研究をしている権威であると。彼と共に、この研究に従事できることが自分にとっての誇りであると。
なのに。それなのに。
今の彼は、己が投げられてしまった恐ろしい重圧を、どうにかこうにか言い訳して他人に押しつけることで精いっぱいになっていた。今まで信じて来たものが、がらがらと崩れ落ちる感覚とはまさにこのことか。なんて醜いのだろう――僕は心底失望させられたのである。
自分が人殺しになりたくないからって。
命を選別する重圧を背負いたくないからって、それを無理やり部下に押しつけるなんて。
そんな人を今まで、敬愛できる存在だと信じてきたなんて、本当に馬鹿みたいな話ではないか。
『頼んだ。なるべく早く頼むぞ』
彼はそれだけ言い捨てて、逃げるように立ち去ってしまった。真っ白なこの部屋に、タブレットと僕だけを残して。
「は、ははは……」
何かの冗談だと、思いたかった。
彼が、政府からも信頼が厚く、総理大臣ともコネクションがある人物であることは知っている。経緯はともかく、同じ汚名を被りたくない連中の間で、このタブレットが散々たらいまわしにされた挙句教授のところまで来ただろうちうのは想像に難くない。先進国が犠牲になればいいとのたまった超大国のリーダーでさえ、これを自分で選択する勇気はなかったというわけだ。
――押したら、僕は人殺しか?僕が悪いことになるのか?
白いテーブルの上、藍色のタブレットを見つめる僕。
――照査されたレーザーが、連合の兵器であることなどすぐに明るみに出るだろう。そしたら、奴らは自分達の兵器のスイッチが盗まれて誰かに使われたとでも言うつもりか?……僕の名前が公開されて、大量殺人犯と罵られて、今までの人生全て棒に振れと?
あんまりだ。
こんなにも、こんなにも、人々のために昼夜問わず研究に邁進してきた僕に、どうしてこんな酷い仕打ちができるのだろう。ただ親兄弟がいないというだけで。研究に没頭しすぎて、恋人や友人を殆ど作る暇もなかったというだけで?
否、きっと。教授にとってはそれさえ適当な口実にすぎないのだろう。タブレットを押しつけられるのであれば、僕でなくても誰でも良かったのだ。それこそ、他の部下には全部断られた上で僕のところに来た可能性も充分にあり得る。
――腐った世界じゃないか。自分が生き残るためなら、罪もない人々を山ほど殺戮してもいいってか。
そうだ、教授の言う通り。
自分には失うものなんて何もない。だから。
――全部、壊してやる。
こんな世界。
どうなろうと、知ったことか。
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