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帰宅
蘇芳に送られて母方の祖父と二人で暮らす祖父の家に辿り着いた。木造の平屋である。増改築を繰り返しつつ、私が生まれるずっと前からここに建っていた。
祖母が亡くなり、独り暮らしとなった祖父は、生活の一通りのことは自分で出来たが、いかんせん高齢である。何かあった時のために、と、実家より交通の便がよいこともあり、大学進学を機に私が移り同居することになった。
狭い路地に位置する割には敷地はたっぷりとあり、家の裏手には物干し台を置ける程の庭もある。沈丁花がまもなく開花しようとしていた。
「寄ってく?」
「萌黄も明日早いんでしょう。今日は帰るね」
時折振り返りながら、狭くなっていく暗い路地の中に吸い込まれていく蘇芳に手を振り続けた。鈍いサーモンピンクのレザージャケットが完全に闇と同化して見えなくなったところで、今朝の黒猫を探してなんとなく周囲を見渡すが見当たらない。もうここへは近付かないのかもしれない。
私はねずみ色に塗られたペンキがところどころはげた木製の門をぎぎぎと開けると、玄関の引き戸をがらがらと開ける。むんと温かい空気に出迎えられ、「またやったな」と半ば舌打ちしながらまっすぐ居間に向かい、つけっぱなしになっていたガスストーブを消した。居間から続きになっている祖父の寝る和室のふすまをわずかに開け、隙間より寝息を確認すると、またふすまをぴたりと閉めた。
私は白地に紅色の金魚の描かれた自分の湯飲みを食器棚の中から探し出すと、緑茶を入れた。祖父は食器を洗い片付けてくれるのはいいが、片付ける位置は毎回まちまちなのだ。
お茶を持って自室に入り、机に向かうと就職活動ノートを広げた。私は私の母がかつて使用していた部屋をそのまま使用している。この机も母のものだ。母の時代と今とでは状況もずいぶん異なるだろうが、母も昔、この机に向かい同じように肘をつき、就職先のことを案じていたのかと思うと、思考はワープし若かりし頃の母と重なるようだった。ただし社会人となったのが、弾けた後ではあったが、ぎりぎりバブルの余韻が残っていた時期だったこともあり、私と違って立派に就職先を見つけた母は、三十年近く経た今も働き続けている。
また猫のさかりの声がした。結構近くからだったが、私は今度は窓を開けるでもなく、ノートに見開きで枠を書いて作った一覧表に目を落としていた。あった。目当てのメーカーの名を見つけると、スタイルフィットの赤インクで二重線を引いてその名を消した。たまに色を変えることもあったが、ページは真っ赤に染まっていた。
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