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赤い薔薇の君
淀んだ川に沿う細い道の片側には、今にも崩れそうな古びた家が、隙間なく詰め込まれている。
そのアパートもそんな家々の中の一つで、窓から漏れるぼんやりとした灯りが、薄暗い道を照らしている。錆付いて塗装のはげた陽の当たらないベランダでは、住人たちそのもののようにくたびれた洗濯物が湿った風に揺れている。
アパートの斜め前にある街灯の下、いつもの通りに立ち止まって二階を見上げる。
素焼きの鉢に植えられた低い木が、ベランダの片隅でまぶしいくらいにつややかな緑の葉をつけた枝を広げている。そしてその枝の先には、大きな赤い花を咲かせていた。
桜以外の花などまともに見たことのない俺でも分かる、まがうことなき深紅の薔薇だ。
灰色以外の色をすっかりなくしてしまったような景色の中で、そこだけがまるで異世界だ。花屋の店先ででも見れば鮮やかなのだろう花の色は、ここではただ派手でけばけばしいとしか見えない。
あんなものに金をかけるくらいなら、もう少し良い部屋に住めばいいのに。
そんな風に思いながらも、この道を通る時にはいつもこの花を見上げてしまう。
あの部屋の住人はどんな人物だろうか。何度考えてもうまくイメージが浮かばない。
園芸好きの健気な少女か、無駄な虚栄心が膨らんだ中年女か。あるいは女にもらったプレゼントを大事に育てている男かもしれない。しかしこんな部屋に住む男に薔薇の鉢植えを贈ってやる女なんかいないだろう。夜逃げする前の幸せな家庭の思い出、なんていうのもアリかもしれない。でもそれならもっと扱いやすいものを持ち出すだろうか。
そんな安っぽい空想をするのが、最近の日課になりつつある。
立ち止まると言っても、ほんの三十秒ほどのことだ。街灯の光から逃げるように足を伸ばして、歩き出そうとした瞬間だった。
アルミサッシの軋む音が、不自然なほど大きく聞こえた。
思わず音のした方を振り返る。あの部屋のベランダに人影が見えた。
薄明かりに照らされた肌ははっとするほど白い。細い指が赤い花に触れる。細い体を屈めて、花に顔を埋める。スポットライトのように街灯の光を浴びた横顔に、長いまつげが影を落としている。
突如現れた非日常的なワンシーンに呆然としていた俺は、その人物が立ち上がってこちらを不審そうに眺めた時、やっとこれが現実だったと思い出した。
しまった、と思った時にはもう遅い。眼鏡の奥の目が俺を見下ろしている。俺は愛想笑いを浮かべて軽く頭を下げると、早足でその場を去った。
もうここを通るのはやめだな、と思いながら、さっきのシーンを反芻する。
白い肌。細い指。ゆっくりと動く平らな胸。喉の膨らみ。
俺はその日、綺麗な男というのを初めて見た。
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