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傘をささないと、と思ったのは、天井の隅からしたたり落ちる水の音と、足元の水たまりのせいだった。勿論、実際には傘をささないといけないほどひどくはない。それでも、当事者の俺にとっては、十分ショッキングな光景だった。
ぐっしょりと水を吸った布団、服、雑誌。
玄関で立ち尽くす俺に、大家が呑気に声をかけた。
「やっぱり結構漏れてきてますねえ。ああ、でも安心してください、漏れたのは上水、綺麗な水ですからね。服なんかもね、乾かせばちゃんと着れると思いますよ、はい」
下水が漏れる可能性もあったと知って背筋が凍った。
「水道管ですか?」
大家が透也を振り返る。
「いや、上の階の水道が出しっぱなしになってたみたいでしてね。空き部屋になってたんで、ちょっとずつ出続けてたのに気付かなかったんですよ。それが今日、その隣からね、水が漏れてるって連絡がきて、それで見てみたらこれは下も漏れてるだろうっていうんで、ご連絡した次第でして」
俺が今日、部屋にいなかったのは良かったのか悪かったのか。
「ええと、それでですね、まあ今回は原因が空き部屋ということで、うちが補償する事になるんですけども、まあ、ちょっとうちもね、そんな大金は出せませんので、そこのところはね、申し訳ないんですけど」
「具体的にはいくらくらいですか」
すかさず割って入った透也に、大家はちょっとばつの悪そうな顔を向けた。
「まあ、そうですね、十万、くらいでしょうか。あと、勿論今月の家賃は結構です」
「十万? これだけ被害が出てるのに? 」
「いやまあ、そうなんですが、元々このアパートが古いのは承知して借りてもらってるわけですし、うちも厳しいのでねえ」
透也はなぜかそれに不満そうに目を細めた。
「うちはね、もうずっと維持費ぎりぎりの値段で貸してるんですよ。安かろう悪かろうという言葉もありますからね、そこはある程度妥協してもらわないと。ねえ、南雲さん」
急に話を振られて驚いたが、よく考えれば自分の部屋の話だった。
「わかりました、それでいいです」
透也が信じられないというように目を見開いた。大家の方は、さっきまでとは打って変わって、満面の笑みを浮かべていた。
「ああ、そうですか、良かったです。ここの水出しはね、私も手伝いますから。道具なんかもね、ある物はお貸ししますし」
「ところで、俺は今夜からどこに住めばいいんですかね」
俺がそう言うと、大家の笑みが凍り付いた。
「そのことなんですが、大変申し上げにくいんですがね、このアパートは今満室で、ちょっと今、管理会社の方にね、近くで空き部屋がないか聞いてるんですけども、ちょっとこの近くだと難しいかな、という感じでして。それでですね、まあ近くのビジネスホテルにでも泊まっていただくことになるかと思ったりもしていたんですが、今日はね、ご友人がいらっしゃるようですから、ちょっと安心したんですよ」
俺は大家が一体何を言おうとしているのかよく分からなかった。
「どうです、代わりの部屋が見つかるまでだけでも、泊めてあげるというのは。先程から随分南雲さんに親身になってらっしゃるじゃないですか。いや勿論こちらでも部屋は探しますから、ほんの数日だと思いますよ」
大家は透也の方に向き直って、とんでもないことを言い出した。俺と透也が今日知り合ったばかりだなんて事を、彼は勿論知るよしもないのだから、そう無茶な話でもないつもりなのかもしれないが、それにはしても滅茶苦茶な展開だ。
透也がちらりと俺を見る。
俺が大家に事情を説明しようと口を開いた瞬間、透也は小さくうなずいた。
「いいですよ。じゃあうちに荷物を運びたいので、手伝ってください」
俺は開いたままの口を閉じることも出来ずに、呆然と透也の顔を見つめた。
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