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睡魔に打ち勝つ体力と気力さえあれば、深夜のコンビニほど良いバイト先はない。もちろん、治安の悪い繁華街なんかにあるなら話は別だが、幸いここは平和な住宅地のど真ん中だ。
街はすっかり静まりかえって、まるで世界で自分一人生きているような不思議な気分になる。
品出しはもう三十分前に済ませたし、最後の客が来てからかれこれ二時間は経っていた。
目の前の棚に吊られた菓子のパッケージの薔薇の写真にふと目がとまる。川沿いを歩く習慣がなくなって早一週間。まだ俺の頭には、あのシーンがこびりついている。
あの夢のような一瞬を、俺は忘れるべきなのか、それとも大事にしまっておくべきなのか。
多分忘れた方がいいんだろう。あんな覗き見みたいな真似をしたんだから。
そう思えば思うほど、あの男の輪郭がはっきりしてくる。思い返せば返すほど美化されているのだろうその顔は、いまや少女漫画のヒーロー並みに整っている。
そう、ちょうど目の前の男のように。
「いらっしゃいませー」
自動ドアが開く音に、反射的に声が出る。ドアの方を向いたまま、俺は動きを止めた。
ドアの前に立った男も同じように動きを止める。一歩足を後ろに進めようとして、思い直したように元の位置に戻す。ここから一番近いコンビニまで、歩いて二十分なのを思い出したのだろう。
彼は諦めたように小さくため息をつくと、ゆっくりと店内に入る。俺の視線を避けるように、わざわざ遠回りしてパンの棚まで行く。迷うことなく二つパンを選ぶと、真っ直ぐレジに向かってきた。
思っていたより背が高い。一七〇の半ばくらいだろうか。目線の少し下にある顔は、近くで見てもやはり記憶の中と同じように綺麗で、それに却って驚いた。
「二百五十円になります」
白い指がカウンターに五百円玉を置く。無愛想ではあるが、別に怯えた様子はない。
「ポイントカードはお持ちではないですか?」
「はい」
特別高くも低くもない、至って平凡な声だ。
「お作りしましょうか?」
「要りません」
「失礼しました」
もう少し何か言うことはないかと探したが、何も見つからない。
「二百五十円のお返しとレシートです」
流石に手を握ったりはしない。
「ありがとうございましたー」
自動ドアが閉まる音とともに、元の静けさが帰ってくる。
俺はカウンターに肘をついて、ガラス張りの壁から外を見る。彼の姿はもう闇に溶けて見えない。
何か言えば良かっただろうか。
例えば、そう、良い薔薇ですね、とか、そんなことを。
シフトが終わるまでまだ四時間ほど。
俺はその間、もし次に彼に会えたら、何を言えば良いかを考えることにした。
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